近畿
道の駅 若狭熊川宿(みちのえき わかさくまがわしゅく)
最終更新:風波
基本情報
| 場所 | 北緯35度26分27秒, 東経135度54分21秒 |
|---|
熊川は、もともと戸数40ほどの小さな寒村であったという事です。室町時代に、戦略上の要地として足利将軍直属の武士、沼田氏が山城を構えたところであり、今もその遺構を確認する事が出来ます。
さらに、豊臣秀吉の相婿(実際は再従姉妹の夫)でもあり秀吉に重用された浅野長吉(長政)が、 小浜城主になった時に交通・軍事の要衝として、熊川に対し天象17年(1589)に諸役免除の布告を発し、この地の特別の発展を図ったのです。
以来、若狭代々の領主は、この政策を受け継ぎ熊川は江戸時代を通じて近江国境に接する宿場町として大いに繁栄していきました。 江戸時代初期から中期にかけて、熊川宿の戸数は200戸を越えていたようですが、現在では100戸ほどになっています。
また熊川の東方の集落大杉は、熊川が人馬継ぎたてを主とし資金の賃借、人足・馬方の出入りなど諸般の仕事をした問屋を基盤にしていたのとは異なり、農家からなる集落です。
熊川よりも前に開けたという言い伝えがあり、元弘年間(1331〜33)鎌倉時代末には、関所が設けられて往来を監視したと『熊川村誌』に記されています。
道の駅 若狭熊川宿よりの情報です。
詳しくは、道の駅 若狭熊川宿のHP
https://kumagawajuku.jp/kumagawajuku.html
さらに、豊臣秀吉の相婿(実際は再従姉妹の夫)でもあり秀吉に重用された浅野長吉(長政)が、 小浜城主になった時に交通・軍事の要衝として、熊川に対し天象17年(1589)に諸役免除の布告を発し、この地の特別の発展を図ったのです。
以来、若狭代々の領主は、この政策を受け継ぎ熊川は江戸時代を通じて近江国境に接する宿場町として大いに繁栄していきました。 江戸時代初期から中期にかけて、熊川宿の戸数は200戸を越えていたようですが、現在では100戸ほどになっています。
また熊川の東方の集落大杉は、熊川が人馬継ぎたてを主とし資金の賃借、人足・馬方の出入りなど諸般の仕事をした問屋を基盤にしていたのとは異なり、農家からなる集落です。
熊川よりも前に開けたという言い伝えがあり、元弘年間(1331〜33)鎌倉時代末には、関所が設けられて往来を監視したと『熊川村誌』に記されています。
道の駅 若狭熊川宿よりの情報です。
詳しくは、道の駅 若狭熊川宿のHP
https://kumagawajuku.jp/kumagawajuku.html
| 駐車場 | |
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| トイレ | |
| 水場 | |
| 食事 |
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