記録ID: 4228803
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ハイキング
近畿
高野山 京大坂道
2022年05月02日(月) [日帰り]

体力度
3
日帰りが可能
- GPS
- 02:50
- 距離
- 13.0km
- 登り
- 1,017m
- 下り
- 275m
コースタイム
| 天候 | 快晴、気温13℃ 心地よい風 |
|---|---|
| 過去天気図(気象庁) | 2022年05月の天気図 |
| アクセス |
利用交通機関:
電車
高野山からは、バスで高野山駅 ケーブルカー経由で南海高野線極楽橋 |
| コース状況/ 危険箇所等 |
京大坂道 コース全般に舗装路で危険なところはありません。京大坂道(きょうおおさかみち)は、高野七口と呼ばれる7つある主たる高野参詣道の内の一つで、京都や大阪からの高野街道が紀の川を渡り、和歌山県橋本市学文路から高野町・極楽橋を通り、高野山の入り口となる不動坂口に至る参詣道である。特に、京大坂道不動坂(きょうおおさかみちふどうざか)と言った場合は、京大坂道における「不動坂」と呼ばれる一部区間のみを指す。 |
写真
日輪寺
日輪寺は、和歌山県伊都郡九度山町河根にある高野山真言宗の寺院である。本尊は大日如来であり、山号は大智山、院号は遍照院。河根丹生神社の別当寺。高野七口押印帳のスタンプ設置場所である。
日輪寺は、和歌山県伊都郡九度山町河根にある高野山真言宗の寺院である。本尊は大日如来であり、山号は大智山、院号は遍照院。河根丹生神社の別当寺。高野七口押印帳のスタンプ設置場所である。
文久2年(1862年)に、赤穂藩森家の家老、森主税と村上真輔が、尊王攘夷をさけぶ一派によって殺される事件がおこっている。
無残にも切り殺された父真輔を思うとき、子どもたち4兄弟の胸は、張り裂けんばかりの悲しみと悔しさでいっぱいであった。
そこで、4兄弟と助太刀3人の、7名が、紀州九度山の中屋旅館に集まり、仇討ちの相談をした。
機会をうかがっていたところ、暗殺に加わった6名が、紀州高野山に登ることを知り、山中で待ち伏せしたのである。
そして、高野町神谷の地で、村上兄弟は、念願の仇討ちを果たすこととなった。
時に明治4年(1871年)2月のことである。
しかし、この仇討ち行為がきっかけとなり、明治6年(1873年)に仇討ち禁止令がだされることとなり、村上兄弟による高野での仇討ちが、日本で”一番最後の仇討ち”となったのである
無残にも切り殺された父真輔を思うとき、子どもたち4兄弟の胸は、張り裂けんばかりの悲しみと悔しさでいっぱいであった。
そこで、4兄弟と助太刀3人の、7名が、紀州九度山の中屋旅館に集まり、仇討ちの相談をした。
機会をうかがっていたところ、暗殺に加わった6名が、紀州高野山に登ることを知り、山中で待ち伏せしたのである。
そして、高野町神谷の地で、村上兄弟は、念願の仇討ちを果たすこととなった。
時に明治4年(1871年)2月のことである。
しかし、この仇討ち行為がきっかけとなり、明治6年(1873年)に仇討ち禁止令がだされることとなり、村上兄弟による高野での仇討ちが、日本で”一番最後の仇討ち”となったのである
清不動堂(きよめのふどうどう)は、和歌山県高野町の京大坂道の不動坂にあるお堂である。
古くは、「外の不動堂」と呼ばれていたお堂があり、杉材で作られた像高84cmの不動明王坐像が本尊として祀られていたが、現在は風化による破損が著しいため、高野山霊宝館に収蔵されている。
紀伊名所図会によると、この「外の不動堂」は、もともと弘法大師の草創で、寛文年間(1661-1673)に、備前の国上道郡金岡荘(かみじごおりかなおかのしょう)の野崎家久入道が再建したとされる。
その後、明治16年(1883年)に焼失し、明治20年に大阪伏見町の上田みちという助産婦により再建された。
大正4年(1915年)に不動坂が全面改修され新しいルートとなったため、外の不動堂は荒廃していたが、大正9年(1920年)に大阪の桝谷清吉、寅吉の親子が、新しい不動坂へ修復移転し、清不動堂を建立したものである。
移転前の外の不動堂は、いろは坂とよばれる急坂を登ったところにあったため、高野町の案内板が建てられている。
また、さらに北に歩くと旧不動坂と馬廻道交差点石標が建てられており、次のように記されている。
右 加ミや まきのを
い世 京 大坂
寛政四年壬子年七月立
南無大師遍照金剛
古くは、「外の不動堂」と呼ばれていたお堂があり、杉材で作られた像高84cmの不動明王坐像が本尊として祀られていたが、現在は風化による破損が著しいため、高野山霊宝館に収蔵されている。
紀伊名所図会によると、この「外の不動堂」は、もともと弘法大師の草創で、寛文年間(1661-1673)に、備前の国上道郡金岡荘(かみじごおりかなおかのしょう)の野崎家久入道が再建したとされる。
その後、明治16年(1883年)に焼失し、明治20年に大阪伏見町の上田みちという助産婦により再建された。
大正4年(1915年)に不動坂が全面改修され新しいルートとなったため、外の不動堂は荒廃していたが、大正9年(1920年)に大阪の桝谷清吉、寅吉の親子が、新しい不動坂へ修復移転し、清不動堂を建立したものである。
移転前の外の不動堂は、いろは坂とよばれる急坂を登ったところにあったため、高野町の案内板が建てられている。
また、さらに北に歩くと旧不動坂と馬廻道交差点石標が建てられており、次のように記されている。
右 加ミや まきのを
い世 京 大坂
寛政四年壬子年七月立
南無大師遍照金剛
京大坂道の到着地点の不動坂口に、唯一、現存する女人堂があり、正式には一心院谷女人堂と呼ばれていた。かつて高野山が女人禁制の時代に、女性は高野山内へは入れず、高野七口とよばれる高野山への入り口7つそれぞれに、女性の為の籠もり堂(参籠所)として女人堂が置かれ、宿泊に利用したり、堂内の大日如来に祈願したり、弘法大師御廟や壇上伽藍を遥拝したとされる。高野山を囲むようにある峰々が聖地と外界(俗世)との結界の境界であり、その結界線そって女人堂を巡るための女人道があり、高野七口にある女人堂を次々と巡りながら、道中でも祈りを捧げた。特に不動坂口の女人堂は女性参詣者が多かったとされ、「紀伊国名所図会」に、「七口各堂ありといへども、此堂最大なり」と記され[25]、高野七口に建つ女人堂の中でも不動坂口に建つ女人堂が最大だったことが分かる。
撮影機器:
装備
| 個人装備 |
長袖シャツ
Tシャツ
ソフトシェル
ズボン
靴下
グローブ
靴
ザック
飲料
保険証
携帯
時計
タオル
カメラ
|
|---|
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