記録ID: 7732173
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ハイキング
房総・三浦
勝浦官軍塚
2025年01月25日(土) [日帰り]

体力度
1
日帰りが可能
- GPS
- 03:48
- 距離
- 9.0km
- 登り
- 190m
- 下り
- 191m
コースタイム
| 過去天気図(気象庁) | 2025年01月の天気図 |
|---|---|
| アクセス |
写真
富咲の石段
冨咲の石段と言われてるこの石段は60段の石段で、石段の両側には赤い燈籠がたくさん並んでいて、下から見上げると圧巻の風景です。
有名なのはひな祭りの時にこの60段の石段にびっしりとひな人形が並び絶景
冨咲の石段と言われてるこの石段は60段の石段で、石段の両側には赤い燈籠がたくさん並んでいて、下から見上げると圧巻の風景です。
有名なのはひな祭りの時にこの60段の石段にびっしりとひな人形が並び絶景
富咲の石段
冨咲の石段と言われてるこの石段は60段の石段で、石段の両側には赤い燈籠がたくさん並んでいて、下から見上げると圧巻の風景です。
有名なのはひな祭りの時にこの60段の石段にびっしりとひな人形が並び絶景
冨咲の石段と言われてるこの石段は60段の石段で、石段の両側には赤い燈籠がたくさん並んでいて、下から見上げると圧巻の風景です。
有名なのはひな祭りの時にこの60段の石段にびっしりとひな人形が並び絶景
勝浦城址
八幡岬の先端三方海に臨んだ断崖に勝浦城址があります。築城時期については様々な伝承がありますが、城郭の形態をなしたのは、正木時忠からではないかと考えられます。それ以前は真里谷武田氏の出城か砦であったと考えられます。正木時忠がいつ侵攻してきたのかは不明ですがおおよそ天文8年(1539年)から天文10年(1541年)にかけてではないかと考えられています。
正木氏は時忠から時通・頼忠と続きますがが天正18年(1590年)小田原落城により関東が徳川家康の支配下に置かれるとほどなく植村泰忠に接収されることになります。
現在、郭内、木戸脇、内宿、二のくら(廓)、三のくらなどの地名は残っていますが廓跡も八幡岬公園として生まれ変わり、お万の方の銅像が青い太平洋を見つめています。
八幡岬の先端三方海に臨んだ断崖に勝浦城址があります。築城時期については様々な伝承がありますが、城郭の形態をなしたのは、正木時忠からではないかと考えられます。それ以前は真里谷武田氏の出城か砦であったと考えられます。正木時忠がいつ侵攻してきたのかは不明ですがおおよそ天文8年(1539年)から天文10年(1541年)にかけてではないかと考えられています。
正木氏は時忠から時通・頼忠と続きますがが天正18年(1590年)小田原落城により関東が徳川家康の支配下に置かれるとほどなく植村泰忠に接収されることになります。
現在、郭内、木戸脇、内宿、二のくら(廓)、三のくらなどの地名は残っていますが廓跡も八幡岬公園として生まれ変わり、お万の方の銅像が青い太平洋を見つめています。
千葉県勝浦市八幡岬公園(勝浦城跡)にある養珠院像
徳川家康の側室。紀州徳川家の家祖徳川頼宣、および水戸徳川家の家祖徳川頼房の母。養珠夫人ともいう。名は万
出自については、有力な説として『寛政重修諸家譜』などでは、勝浦城主正木頼忠と智光院との間に生まれた娘とある。『南紀徳川史』では河津城主蔭山氏広と智光院との間に生まれた娘とされる。
徳川家康の側室。紀州徳川家の家祖徳川頼宣、および水戸徳川家の家祖徳川頼房の母。養珠夫人ともいう。名は万
出自については、有力な説として『寛政重修諸家譜』などでは、勝浦城主正木頼忠と智光院との間に生まれた娘とある。『南紀徳川史』では河津城主蔭山氏広と智光院との間に生まれた娘とされる。
千葉県勝浦市八幡岬公園(勝浦城跡)にある養珠院像
徳川家康の側室。紀州徳川家の家祖徳川頼宣、および水戸徳川家の家祖徳川頼房の母。養珠夫人ともいう。名は万
出自については、有力な説として『寛政重修諸家譜』などでは、勝浦城主正木頼忠と智光院との間に生まれた娘とある。『南紀徳川史』では河津城主蔭山氏広と智光院との間に生まれた娘とされる。
徳川家康の側室。紀州徳川家の家祖徳川頼宣、および水戸徳川家の家祖徳川頼房の母。養珠夫人ともいう。名は万
出自については、有力な説として『寛政重修諸家譜』などでは、勝浦城主正木頼忠と智光院との間に生まれた娘とある。『南紀徳川史』では河津城主蔭山氏広と智光院との間に生まれた娘とされる。
勝浦海岸八幡岬の先端に近い断崖の松の根方に、「お万布ざらし」という名所があります。
里見八勇士の一人、勝浦城の城主正木頼忠の娘として、お万は生まれました。美しい景色にかこまれた勝浦城で、お兄さんの為春と慈愛深い両親のもとで、すこやかに美しく成長しました。
天正十八年、お万が十三歳になったころのことです。徳川家康が関東一帯を支配するようになりました。それにつれて勝浦城も家康の家臣に攻められて、城を追われることになってしまいました。
旧暦の八月十五日といいますから、いまでいえば九月十五日です。満月が雲にかくれ、草むらに虫の声も聞こえなくなったような夜のやみにまぎれてお万は手をひかれ、父や兄たちとの別れの悲しい涙にぬれながら、こっそりと城をぬけでました。くらやみの中を必死にのがれました。そして、岬の先端に枝をのばした松の根方に、用意をしておいた白布をまるで滝のようにさらし、それを伝わって海の上におりていきました。
海にはひそかに待っていた家来の小舟がありました。そそれに乗って伊豆の方面へ逃げのびたのです。
里見八勇士の一人、勝浦城の城主正木頼忠の娘として、お万は生まれました。美しい景色にかこまれた勝浦城で、お兄さんの為春と慈愛深い両親のもとで、すこやかに美しく成長しました。
天正十八年、お万が十三歳になったころのことです。徳川家康が関東一帯を支配するようになりました。それにつれて勝浦城も家康の家臣に攻められて、城を追われることになってしまいました。
旧暦の八月十五日といいますから、いまでいえば九月十五日です。満月が雲にかくれ、草むらに虫の声も聞こえなくなったような夜のやみにまぎれてお万は手をひかれ、父や兄たちとの別れの悲しい涙にぬれながら、こっそりと城をぬけでました。くらやみの中を必死にのがれました。そして、岬の先端に枝をのばした松の根方に、用意をしておいた白布をまるで滝のようにさらし、それを伝わって海の上におりていきました。
海にはひそかに待っていた家来の小舟がありました。そそれに乗って伊豆の方面へ逃げのびたのです。
与謝野晶子〔鳴海神社付近(浜勝浦)〕
おお美しい勝浦
山が緑の
優しい両手を伸ばした中に
海と街とを抱いている
此処へ来ると
人間も 船も 鳥も
青空に掛る円い雲も
すべてが平和な子供になる
太洋で荒れる波も
この砂の上で
柔かな鳴海絞りの袂を
軽く拡げて戯れる
それは山に姿を仮りて
静かに抱く者があるからだ
おお美しい勝浦
此処に私は「愛」を見た
おお美しい勝浦
山が緑の
優しい両手を伸ばした中に
海と街とを抱いている
此処へ来ると
人間も 船も 鳥も
青空に掛る円い雲も
すべてが平和な子供になる
太洋で荒れる波も
この砂の上で
柔かな鳴海絞りの袂を
軽く拡げて戯れる
それは山に姿を仮りて
静かに抱く者があるからだ
おお美しい勝浦
此処に私は「愛」を見た
官軍塚
戊辰の役で旧幕府軍の榎本武揚は函館五稜郭で官軍に抵抗し、維新政府から鎮圧を命ぜられた津軽藩は容易に平定できませんでした。このため津軽藩主の実兄が熊本藩主であった縁故を頼り援軍を要請。
明治2年2月13日(旧歴1月2日)熊本藩は米国汽船ハーマン号を雇って隊長、寺尾九郎右衛門以下350人が米国船員80名とともに品川を出発しました。
しかし深夜、川津沖の岩礁地で漁師が「関東の鬼ヶ島」と呼ぶ難所で大暴風雨に遭い座礁沈没。川津の住民は救助活動にあたりましたが230人あまりの犠牲者を出してしまいました。
この遭難者を埋葬、供養し明治11年に「華立巌(はなたていわ)碑」として慰霊碑が建立されたのが現在の官軍塚です。以降、約150年にわたり地元川津区では犠牲者の慰霊を続けています。
戊辰の役で旧幕府軍の榎本武揚は函館五稜郭で官軍に抵抗し、維新政府から鎮圧を命ぜられた津軽藩は容易に平定できませんでした。このため津軽藩主の実兄が熊本藩主であった縁故を頼り援軍を要請。
明治2年2月13日(旧歴1月2日)熊本藩は米国汽船ハーマン号を雇って隊長、寺尾九郎右衛門以下350人が米国船員80名とともに品川を出発しました。
しかし深夜、川津沖の岩礁地で漁師が「関東の鬼ヶ島」と呼ぶ難所で大暴風雨に遭い座礁沈没。川津の住民は救助活動にあたりましたが230人あまりの犠牲者を出してしまいました。
この遭難者を埋葬、供養し明治11年に「華立巌(はなたていわ)碑」として慰霊碑が建立されたのが現在の官軍塚です。以降、約150年にわたり地元川津区では犠牲者の慰霊を続けています。
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