日光例幣使街道:境宿~倉賀野宿

- GPS
- 08:44
- 距離
- 26.2km
- 登り
- 54m
- 下り
- 18m
コースタイム
| 天候 | 晴れ ほぼ無風 |
|---|---|
| 過去天気図(気象庁) | 2025年12月の天気図 |
| アクセス |
利用交通機関:
電車
|
写真
感想
境町駅から出発し、『日光例幣使街道』の一部を歩いてきました。
▶︎日光例幣使街道とは
江戸時代に『例幣使』と呼ばれる、天皇の使用人のご一行が通った正式な街道のこと。
朝廷のあった京都から日光東照宮へ奉幣(ほうへい)を行うのに、江戸を経ずに日光へ向かうルートです。
通常、倉賀野宿から境町宿に向かって歩きますが、ランチタイムのことを考えて、逆ルートにしてみました。
▶︎ 戸谷塚町の『浅間山大噴火の供養塔』
伊勢崎市戸谷塚町に着いた際、「浅間山大噴火の供養塔」があると知り、足を運んでみました。
ここで言う浅間山噴火とは、1783年(天明3年)に起きた天明大噴火を指します。
▶︎ 700余体の遺体が流れ着いた土地
浅間山から100km近く離れた戸谷塚町ですが、利根川沿いには噴火で亡くなった700余体の遺体や流出物が流れ着いたと伝えられています。
▶︎ 大噴火後、川の水は「飲めなかった」
火砕流によって川は土砂でせき止められ、流域には腐敗した遺体、魚、動物の死骸が大量に漂着しました。
記録によれば、吾妻川・利根川流域の川は黒い泥流で満たされ、悪臭が立ち込めていたとされています。
飲用に使われていた井戸も濁水と死臭で使用できず、田畑は火山灰に覆われて作物も作れない。夏場で遺体の腐敗が早く、疫病の発生も極めて深刻な状況でした。
▶︎ 村人たちの協力で建てられた供養塔
当時は現在のような行政機関や自衛隊が存在しませんでした。
その中で村人たちは恐怖と悪臭に耐えながら、一体ずつ丁寧に遺体を埋葬し、翌年には供養塔を建立したとされています。
つまり、
『浅間山大噴火の供養塔』は、自然災害の記録であると同時に、地域の相互扶助の精神を今に伝える「歴史の証」でもあるのです。
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なほりん




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