宇治 さわらびの道〜放生院〜源氏物語ミュージアム〜仏徳山〜宇治上神社、宇治神社、恵心院、興聖寺〜あじろぎの道

fu-tyan
その他1人 - GPS
- 05:53
- 距離
- 7.5km
- 登り
- 125m
- 下り
- 120m
コースタイム
- 山行
- 6:00
- 休憩
- 0:00
- 合計
- 6:00
| 過去天気図(気象庁) | 2022年02月の天気図 |
|---|---|
| アクセス |
利用交通機関:
電車 バス
|
写真
本尊 地蔵菩薩
真言律宗。山号は雨宝山。寺号は常光寺。橋寺の通称で知られる。推古天皇十二年(六〇四)に聖徳太子の発願で秦河勝が開創したと伝える。大化二年(六四六)に奈良の元與寺の道登(一説に道昭)により宇治橋が架けられると、橋を管理する寺となり、弘安九年(一二八六)、西大寺の叡尊が宇治橋を架け替える時に当寺を修復した。寛永八年(一六三一)に火災にあったが、のち再建。本堂に鎌倉時代作の本尊地蔵菩薩立像(重要文化財)を安置する。境内にある宇治橋断碑(重要文化財)は、宇治川に初めて橋が架かったことを記念する石碑。多胡碑(群馬県高崎市)、多賀城碑(宮城県多賀城市)とともに日本三古碑に数えられることもある。また、宇治川の中州にある浮島十三重塔(重要文化財)は高さ約十五メートルの日本最大の石塔で、弘安九年の宇治橋再興の時に叡尊が建立した。
宇治橋東詰から宇治川の右岸(東側)に沿って、放生院(橋寺)、宇治神社、宇治上神社を経て、源氏物語ミュージアム(宇治市宇治東内)へと続く道。途中、『源氏物語宇治十帖「早蕨」の古跡があり、道の名前はこれにちなんでいる。また、「総角」の古蹟もあり、物語ゆかりの場所や、宇治の名所を巡ることのできる人気の道である。宇治橋東詰から宇治川の右岸をそのまま川沿いに進む道は朝霧通と呼ばれている。中の島にかかる朝霧橋の東詰には、宇治十帖のモニュメントがある。
祭神 応神天皇、仁徳天皇、菟道稚郎子
世界遺産(文化遺産)。かつて当地に応神天皇の離宮(桐原日桁宮)があり、皇子菟道稚郎子の宮居でもあったと伝える。明治維新までは隣接する宇治神社とともに宇治離宮明神(八幡宮)と呼ばれ、宇治神社を離宮下社と称したのに対し、離宮上社と称された。本殿(国宝)は神社建築として最古の遺構で、年輪年代法では一〇六〇年代の建立という。鎌倉時代の拝殿も国宝。境内には、宇治七名水の一つに数える桐原水がある。→世界遺産43頁、国宝建築183頁、流造(本殿)186頁
”落語と古典と名所と”
昨年の京都検定1級の問題に5問も出題されました(-_-;)
「愛宕山」、「はてなの茶碗」、「こぶ弁慶」、「景清」、「幽霊飴」
誓願寺の安楽庵策伝、醒睡笑、
北野天満宮の露の 五郎兵衛に関する資料などが展示してありました。
先日写真を撮ったばかり。
朝のウォーミングアップ+ピークハント(仏徳山、朝日山、明星山、喜撰山)
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-998364.html
祭神 菟道稚郎子
宇治の産土神として崇敬を集めている。祭神の菟道稚郎子は応神天皇の皇子で、異母兄にあたる大鷦鷯尊(のちの仁徳天皇)に皇位を譲るために自害したと伝わる。明治維新までは宇治離宮明神(八幡宮)と呼ばれ、現在の宇治上神社を離宮上社と称したのに対し、離宮下社と称された。両社はもともと一体であったが、明治十九年(一八八六)に離宮上社は分離独立し、宇治上神社となった。平安時代以来、貴族に崇敬され、祭礼の宇治の祭(離宮祭)は賑わったという。鎌倉時代の建造物である本殿(重要文化財)には、菟道稚郎子の像とされる木造神像(重要文化財)が祀られている。
本尊 釈迦如来
山号は仏徳山。天福元年(一二三三)に道元が伏見の深草に道場を創建したという。その後廃絶していたが、慶安元年(一六四八)には淀城主の永井尚政が菩提寺として復興。中興開山は万安英種。寺地は宇治七名園の一つの朝日茶園であった。琴坂のカェデ・ヤマブキや境内のツツジ・サツキなどが有名。本堂の天井は鳥居元忠らが自刃した伏見城の遺構で、血天井と呼ばれている。
帰りは
あじろぎの道 宇治市[検定テキスト]
宇治の平等院方面から宇治公園(中の島)へと向かうと橘橋がある。そこから宇治川の左岸(西側)に沿って続いている小道。左岸を行くとやがて喜撰橋が現われ、さらにそのまま進むと『源氏物語』宇治十帖「宿木」の古蹟がある。物語を偲ぶことのできる格好の散歩道である。「あじろぎ」は「網代木」で、宇治川で行われていた独特の漁法「網代漁」の網代を繋ぐ杭のこと。
感想
源氏物語ミュージアムで企画されている落語の展示を見に来ました。
参考までに昨年京都検定1級試験で出された問題です。
京都は多くの落語の舞台にもなっている。( )に入れる最も適当な語句を書きなさ
(1)京都の旦那や芸舞妓と共に幇間の一八らを連れて、野駆けに出てユーモラスなやり取りが繰り広げられる落語「( )山」。火伏信仰で知られる( )山への山行きとなり、かわらけを谷に投げる「かわらけ投げ」でクライマックスを迎える。
(2)落語「はてなの茶碗」は、清水寺の( )の滝近くにある茶店で、京都一の目利きの茶道具屋の金兵衛(茶金)が、自分の飲み終わった茶碗をこねくり回して「はてな?」と首をかしげていた。それを見ていた油屋が値打ちのある茶碗だろうと考え、大金でその茶碗を手に入れることから始まる噺である。
(3)落語「こぶ弁慶」は、大津の宿で壁土を食べた男の肩に弁慶の顔をした瘤ができてしまうことから始まる。その瘤を取りたいと願った男は、住んでいる綾小路麩屋町から3本北の通りにある( )へ毎日詣でたが、ある日出くわした大名行列に瘤の弁慶が騒動を起こす。その騒ぎと、「瘤」と「昆布」の言葉の酒落が印象的な噺である。
(4)源平の時代の豪傑、悪七兵衛景清は源氏の世は見たくないとして、目玉をくり抜き、清水寺の観音に奉納したという伝説がある。落語「景清」は、失明した目貫師(彫金師)の定次郎が眼病に霊験あらたかな( )の観音さんに21日日参したが叶わず、近所の旦那・甚兵衛に勧められ、清水寺に100日日参したところ、清水の観音さんから景清の目を与えられ、見えるようになった噺である。
(5)六道珍皇寺門前の飴屋に毎夜、飴を買いに来る女がいた。7日目の夜、飴屋の主人が女の後をつけると、( )の墓地に入り姿を消した。女は幽霊で、身重のまま死んだため、子どもを育てるために飴を買いに来ていたのであった。飴屋はこの子どもを引き取り僧に育てあげたという。母親の「子を大事」にする思いが伝わる落語「幽霊飴」の噺である。
もうひとつ誓願寺についてテキストから
誓願寺[検定テキスト]
本尊阿弥陀如来
浄土宗西山深草派の総本山。天智天皇の勅願所として奈良に建立されたが、のちに上京区元誓願寺通小川の地に移転。現在地へは天正年間(一五七三〜九二)に移った。当初は三論宗であり、のち浄土宗に改宗、その後、西山深草派の総本山となった。同寺の五十五世安楽庵策伝は、笑い話集『醒睡笑』を著わし、落語の祖と呼ばれている。門前に有名な石造の「迷子道しるべ」(月下氷人石)がある。墓地には安楽庵策伝や医師山脇東洋などの墓がある。洛陽六阿弥陀巡りの一つ。また、明治時代初期に廃寺となった長金寺の本尊十一面観音が伝わり、洛陽三十三所観音霊場第二番札所の本尊となっている。
→洛陽三十三所観音霊場103頁、洛陽六阿弥陀巡り155頁
ちなみに源氏物語ミュージアムへは京都検定合格証を提示すると入れます。
但し2〜3月限定。
今日ご一緒したお友達は昨年の試験で1級合格♫
わたしは(-_-;)
もう楽しんでやるしか・・・。
2〜3月限定の特典は1級、2級、3級関係ありません。
ブログは
https://blog.goo.ne.jp/corpus2247/e/c53f435172bf068bc7f36f9f54b680be











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