東京から3時間と少しで、裏磐梯高原に着いた。

「なんで『裏磐梯』っていうんやろな。『山陽』『山陰』みたいや。『裏』『陰』って呼ばれたら嬉しくないやろ」
「山の南や太平洋側が『表』『陽』で、山の北面、日本海側が『裏』『陰』なんだよ。嬉しくないかどうかまでは、知らない」

そんな話をしながら、ゴールデンウィークらしく家族連れの多い五色沼探勝路を歩く。意外なことにインバウンド客はあまり見かけない。アクセスが良いとは言い難いからかもしれない。

コロナが明けて平常運転となり、円安も相まって海外からの観光客が大挙して押し寄せるようになった。内心で、好きだった銀座や鎌倉がずいぶん歩きにくくなった、と思っていたので少しほっとする。

それぞれ異なる色彩を見せる湖沼を眺めると、青といってもずいぶん種類があるものだな、と感心する。「綺麗だね、青って大好き。お山登る前から大満足だよ」

しかし隣の同行人は、見入るということもなく最近夢中になっている任侠映画について話し続ける。「広島弁だと『お前』のことを『こんな』っていうねん。最初わからんかったわ」

一緒に山行するようになって気付いたことだけど、どうやら彼は視覚で感動するということが滅多にないらしい。山道でかがみ込んで、小さな花にiPhoneを向ける私を別な生き物と思っている節すらある。

でも鳥の鳴き声には敏感で、うぐいすがさえずればそっくりに鳴いてみせる。家ではいつもクラシックか漫才を聴いている。同じ曲でも、どのオーケストラの演奏か聴き分ける。耳は、感受性豊かなようだ。

「私は目で、あなたは耳なのね」
「でも女性に対しては目もようはたらくで」
そんな話をしながら、昼食をとりに目当てのレストランへ向かった。

＊　＊　＊

宿でチェックインを済ませて、通された部屋はまだ夕方でもないのにセピア色がかって見えた。

「なんだろう、既視感」
「去年行った小豆島の旅館に似とるな」
なんとなく樟脳の匂いがする浴衣を手に、貸切風呂に行くことにする。

湯船からは、磐梯山とはためく鯉のぼりが見える。温泉ではないが、母屋の内風呂とは別にわざわざ別棟で展望風呂を拵えるところに手厚いもてなしの心を感じて、よりじんわりと温まることができた。

食堂に入ると、卓いっぱいに料理が並んでいた。「わぁ」つい迷い箸してしまいそうになる。
私は田舎らしい田舎というものを持たないのだけど、ひさしぶりに帰った実家に迎えられるってこんなかんじなのかな、とふと思う。

風呂と料理ですっかり心を掴まれたあとは、部屋で同行人と「仁義なき戦い 広島死闘篇」に観入る。任侠ものが好きなのに、流血のシーンでは顔を背ける同行人を面白がる。

「私のなかで洋画の金字塔は『ゴッドファーザー』なんだけど、邦画ならこれかもしれないな」
「なんで任侠ものってこんなおもろいんやろな」
「組織が舞台だから‥裏か表かの違いだけで、みんな思うところがあるんじゃないかな。忠義心発揮してもしあわせになれない悲哀とか」

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うぐいすのさえずりで目が覚めた。

朝食後、宿のご主人がバンのドアを開けて待ってくださっていた。「よろしくお願いします」
「こんなに毎日天気がいい年は珍しい。連休でも雪が降ったりします」ご主人の言葉に山行への期待がふくらむ。

途中セブンイレブンに寄っていただき、パンとおにぎりを調達する。裏磐梯スキー場で降りて、行動を開始。

リフトは動いていないため、なだらかな斜面を登り続ける。すぐに汗ばんできて、ウェアを一枚、二枚と脱ぐことになった。

リフト終点以降は、穏やかな山道を歩く。程なくして銅沼に行き当たる。水は、昨日目にした五色沼とはまた違った色彩を帯びている。

三脚を構えた男性とご挨拶。「岩の上がベストポジションなんですよ‥どうぞ」
促されて立つと、鉱物の赤と緑の水を湛えた沼に、それを屏風のように取り囲む磐梯山が視界いっぱいに広がった。
「綺麗ですね。ありがとうございます」
「気をつけて行ってらっしゃい」

やがて、水音が聴こえ始める。水の上を吹き抜ける風がひんやりと頬を撫でる。小さな沢とも道ともつかないところを進む。

沢と別れたら、今度は堆積した雪が現れる。誰かの足跡を覗き込むと、下は深い空洞になっている。踏み抜かないようにそろり、そろりと足を運ぶ。

その横で、イワナシが可憐な桃色の花を咲かせている。名前のわからない花をいくつも見かける。見るものがたくさんで、私は忙しくなる。

硫黄のにおいが漂ってきた。振り向いて同行人を見る。「木は森に隠せ、や」にやりと笑っている。
「やっぱり」前もこんなことがあったな、銀杏が落ちたいちょう並木を歩いている時だった。

弘法清水小屋に到着。雪を頂いた飯豊連峰がひときわ目を惹く。ここからの景色でもじゅうぶん、と思いながら持ってきた焼きそばパンにかじりつく。

山頂に立つことにそこまで興味がない、ということに最近気が付いた。ピークを踏まないとレコでカウントされないから行く、というかんじだ。

では何のために登るのか？　自分の足で、変化する景色を楽しみたい。次はなにが見られるんだろう、とわくわくし続けたい。また足を、場合によっては手まで動員して無心に動かすことで、ごちゃごちゃとした考えから解放されたい。そういった思いが私を山に向かわせている。

ふたりで鐘を鳴らして、渋滞気味の一本道を登る。それ自体が大きなケルンのような山頂でメロンパンをかじり、目的は果たしたとばかりに下山。

弘法清水小屋から櫛ヶ峰方向へ下りて行くと、行きとはまったく違った景色が眼下に広がった。赤茶けた山肌を剥き出しにした櫛ヶ峰に、私たちは今火山にいるんだということを思い知らされる。

「すごいねん」景色ではなかなか心を動かされない同行人の声も弾んでいる。「福島まで来てよかったね」

荒涼とした景色のようで、足元に目を向けると黄色い花の絨毯ができていたり、てんとう虫に似た虫が風に飛ばされまいとばかりに岩にへばりついている。懸命ってこういうことだな、と思う。

稜線を抜けたあたりで、つま先が痛み始める。年始から履き始めたローバーの登山靴、寒い時期は快適だったものの春頃から下山時に親指と小指に強い圧迫感を覚えるようになった。前滑りしないよう靴紐をしっかり締めても同じことで、ゆっくりとしか下りることができない。

私は浮腫みやすい体質で、またひどい外反母趾の足を持ち合わせている。それが原因かもしれない。
帰りは送迎がないためスキー場から先も歩き続ける必要があるが、このペースでは夕食の時間に間に合わないかもしれない。

「だめ、もう履いてられない。裸足で歩く」靴を脱ぎ、ザックからビニール袋を取り出し靴下の上に被せて歩いてみる。すると今度は足裏に小石が突き刺さった。「痛い！」

「あんた、俺の靴履きいな。俺がビニールで歩いたる」同行人が靴を脱ぎ始めた。私は3cm大きな靴に足を入れ、紐をきつく締めて歩き出す。どこも痛くない。ちょっと生温かいけど。

一方、同行人にとっても足裏に当たる小石は当然痛いようで、時折声を上げる。「もういいよ」「ええねん、バス停までこれで行くねん」

（だからこの人といるんだな、私は）そんなことを思いながら、前に伸びる彼の影を眺めた。

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今回、行き先および宿の選定にあたり
sinosukeさんの過去レコを参考にさせていただきました。交通手段については、今シーズンは高速バスが運休していたため鉄道利用となりました。
丁寧で、とても参考になるレコをありがとうございます。