第49回 山の会&平地会 天王山登山とサントリー京都ビール工場見学


- GPS
- 02:46
- 距離
- 6.5km
- 登り
- 294m
- 下り
- 299m
コースタイム
- 山行
- 2:05
- 休憩
- 0:45
- 合計
- 2:50
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2025年07月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
|
写真
装備
個人装備 |
Tシャツ
ズボン
靴下
雨具
日よけ帽子
靴
ザック
昼ご飯
行動食
飲料
レジャーシート
地図(地形図)
コンパス
笛
計画書
GPS
筆記用具
ファーストエイドキット
常備薬
日焼け止め
保険証
携帯
時計
サングラス
タオル
カメラ
虫除け
虫刺されの薬、かゆみ止め
|
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感想
2025/07/13(日)、JR山崎駅から天王山(標高270m)に登り、サントリー京都ビール工場まで歩いて来ました。
本日のコースは、JR山崎駅スタートし、宝積寺、青木葉谷展望広場、観音寺分岐、旗立松展望台、厳島社、酒解神社、天王山分岐(標高256m)、天王山(標高270m)、天王山分岐、円明教寺分岐、龍神池、サントリー山分岐、奥の山展望所分岐、十方山分岐(標高304m)、小倉神社分岐(標高293m)、小倉神社、調子八角、サントリー京都ビール工場ゴールまでの約6.5km、2時間50分でした。
山の中はアスファルトの上よりは暑くはないが、夏の暑さと登り坂でバテます。
アスファルト道は猛烈に暑かった。
サントリー京都ビール工場では、
ザ・プレミアム・モルツ
ザ・プレミアム・モルツ〈ジャパニーズエール〉香るエール
ザ・プレミアム・モルツ マスターズドリーム
の3種3杯をいただきました。
出来立てのザ・プレミアム・モルツ美味しかった!
山歩き&工場見学の後のご褒美メシは、「高槻豊丸」に行って来ました。
たこぶつ、やみつきネギ、塩キャベツ、明太出汁巻、ポテトサラダ、鮪カマ塩焼き、鶏もも西京焼き、ソース焼きそば、ポテトフライ、軟骨唐揚げ、スルメ天、天ぷら(茄子、蓮根、紅生姜)等をオーダーし、生搾りレモンサワーと熱燗でいただきました。
美味しかった!
豆知識
天王山といえば、天下分け目の大決戦の「山崎の戦い」で有名なところ。「山崎の戦い」は、京都にある本能寺に宿泊していた織田信長が、部下の明智光秀に謀反を起こされた「本能寺の変(1582年6月2日)」をきっかけに起こったもの。
織田信長には、柴田勝家・丹羽長秀・滝川一益・明智光秀・羽柴秀吉を武将とする軍があり、その中の明智光秀が率いる軍が謀反を起こした。これが「本能寺の変」。
明智光秀が謀反を起こした日、京都に残る武将は、明智光秀軍の約13,000人のみで、本能寺には織田信長側近の約30人であったとされている。
信長は、寝込みを襲われ包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害。また信長の嫡男で織田家当主信忠は、宿泊していた妙覚寺から二条御新造に退いて戦ったが最後は自害。この二人の死によって織田政権は崩壊した。
明智光秀の謀反により、織田信長の横死を知った羽柴秀吉は、備中高松城の攻城戦から中国大返しで畿内に戻り、1582年6月13日、羽柴秀吉は明智光秀と山崎の地で戦った。これが「山崎の戦い」。
天王山の東側に展開した明智光秀勢が、羽柴秀吉方先方の中川清秀、高山右近、羽柴秀長らの諸隊と戦った。斎藤利三、並河掃部、松田太郎左衛門らの精鋭を連ねた明智光秀方の猛攻でも、羽柴秀吉方の先方を崩すことができなかった。
羽柴秀吉方の先方が戦っている間に、羽柴秀吉方の池田恒興、加藤光泰、木村隼人らの諸隊が淀川沿いから進攻、円明寺川の東側にも上陸した。淀川沿いの明智光秀方は手薄で、ここを守る伊勢与三郎、御牧三左衛門、諏訪飛騨守らはたちまち苦戦に陥った。
羽柴秀吉は、本陣の大部隊と共に天王山の東側に出て、日暮れには「山崎の戦い」は終わった。
明智光秀が信長を討って天下人になってから僅か13日後に信長と同様の運命を辿り、その短い治世を「三日天下」ともいう。
中国大返しは、本能寺の変で主君織田信長の横死を知った羽柴秀吉が、速やかに毛利氏との講和を取りまとめ、明智光秀を討つため京に向けて全軍を取って返した約10日間にわたる軍団大移動のこと。
羽柴秀吉は、「山崎の戦い」に勝利し、天王山に山崎城を築城し、天下統一に向けて動き出した。
天王山には新選組・幕末に関する歴史もある。
それは、「禁門の変」で敗れた久留米天宮の神官・真木和泉以下17名と、新撰組らとの戦い。
天王山に籠り陣を敷く、真木和泉以下17名に対し、新選組は、会津藩兵、見廻組らとともに1864年(元治元年)7月21日、伏見を出発して天王山に追討に向かいました。
この時、新選組と会津藩兵らは、天王山を攻める隊と、天王山下を固める隊とに分けた。
天王山に攻め入る隊は、新選組から近藤勇と永倉新八・斉藤一の二隊約40名。そして天王山下を土方歳三・原田左之助・藤堂平助・井上源三郎ら150人と会津藩兵400人で固めた。
近藤勇率いる一隊は天王山登山口にある宝積寺から山上へ攻め、真木泉らは近づく近藤隊に、姓名を名乗り合おうと呼びかけ、近藤勇はこれに応えたそうです。 そして、真木が詩を吟じると、浪士らは勝どきを上げて発砲したが、近藤らに応戦され自ら陣所に火を放って自害した。この時、死に切れなかった者には、新選組が介錯したといわれている。
彼ら17名は、最初、宝積寺の三重塔の前に葬られ、山崎や近在の人から「残念さん」と呼ばれて、香花を供えられた。だが、これを幕府側が嫌い、彼らの遺骸を近くの竹林に埋めなおし、参拝を禁じ、さらにその後、天王山山頂近くに再び改葬され、1868年(慶応4年)3月に「烈士墓表」が建立された。
1604年(慶長9年)の建立の宝積寺三重塔(重要文化財)の前にも、「殉国十七士墓」の石碑が建てられている。
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