谷村(やむら)城趾〜谷村陣屋跡〜小山田氏別荘地跡〜勝山城(城山)(山梨県都留市)

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その他1人 - GPS
- 01:59
- 距離
- 4.5km
- 登り
- 200m
- 下り
- 204m
| 天候 | 晴れ |
|---|---|
| 過去天気図(気象庁) | 2021年11月の天気図 |
| アクセス |
利用交通機関:
電車
|
写真
市役所前の案内板に立っていました。ここが谷村城跡です。敵が攻め寄せてくると山の上の勝山城に立てこもるのでしょう。
案内板によると谷村城は寛永10年(1633年)藩主となった秋元泰朝(やすとも)によって整備された。「甲州谷村城繪圖」によると現在の谷村第一小学校に置かれた主郭を中心に、市役所から高尾公園まで本丸を含めて東西にわたって四つの郭が配置され、さらに「向御屋敷(むかいおやしき)」と記された郭が南側に張り出している。また、背後の勝山城には石垣と建物とともに、内橋を利用した整備路が描かれていて谷村城の一部となっていた。泰朝、富朝、喬知(たかとも)の三代にわたって使われたが、喬知の時、川越藩に転封となり廃城となった、とあります。
2019-11-21
都留の商店街沿いを流れる、小さな河川は家中川と呼ばれ、1639年の建設以来、この街の生活を支えてきました。最初は、飲料水や灌漑用の水を供給するために設計されましたが、近年は、水力発電として、市民を支えるようになりました。
現在、この川には3つの小発電所があり、親しみを込めて、元気くん1号、元気くん2号、元気くん3号と呼ばれています。元気くん1号は、都留市役所の前にあります。昔、都留にあったような、下から流れる水で回転する、伝統的な木製の水車に似せて作られましたが、古い設計を改良し、水のエネルギーをもっと効率よくとらえるために、後ろに曲がったブレードを使っています。元気くん2号は、さらに下流の、かつて、旧三の丸発電所があった場所の近くにあり、水が上から水車に落ちるという、新しい設計が特徴です。発電量は3台のうち最大です。
元気くん3号は、谷村第一小学校の隣、元気くん1号と2号の間にあります。コンパクトで、非常に少量の水でも作動可能な、最新のらせん状ブレード翼を使っています。
戦国時代に都留郡では有力国衆・小山田氏が谷村館(谷村城)を置き、谷村の地は郡内における政治・経済的中心地となり城下町が形成されていた。小山田氏の滅亡後、都留郡は徳川氏・豊臣系大名が支配し、谷村城は引き続き支配拠点とされた。近世には谷村藩が設置され、同様に谷村城が政治的拠点となった。
宝永元年(1704年)12月に谷村藩主・秋元喬知が武蔵国川越藩に転封されると、谷村藩は廃藩となり、都留郡は幕府直轄領となった。これにより、谷村には代官所が設置された。享保9年(1724年)には甲斐・国中地方においても甲府藩主・柳沢氏が転封となり、これにより甲斐国は幕領となり、国中には甲府勤番と甲府・石和・市川の代官所が設置された。
谷村代官所は石和代官所の出張陣屋となり、郡内の支配を司った[1]。
谷村代官所は明治維新により廃止され、1872年(明治5年)には谷村裁判所となった[2]。現在同敷地には甲府地方裁判所都留支部が建つ。〜以上ウィキペディアより
長安寺の境内は、13世紀から16世紀にかけてこの地域(都留郡)の領主だった小山田氏の別荘地だったと伝えられています。
小山田氏が滅亡した後、新しく都留郡の領主となった徳川譜代家臣の鳥居元忠は、北条氏綱の子で高僧の感貞大和尚の人柄に感激し、古い別荘を寺院に改装したことが長安寺のはじまりです。
徳川家康が都留郡を巡見した時、感貞大和尚に対面を申し入れましたが、病を理由に謁見を遠慮したので、茶葉が詰まった茶壺を下賜したと言い伝えられています。
この壺は今も寺に保管されています。
寺はその後、たびたびの火災で焼失しましたが、現在の本堂は1725年(享保10年)に再建されたものを1983年(昭和53年)に修復完成したものです。この改修の際に、本堂の屋根裏から「享保拾乙巳年八月廿八日」と記入された棟札が発見されたことから、本堂の建立日が明確となっています。
また、観音堂には武田信玄の守り本尊と伝えられている秘仏の聖観世音菩薩が祭られています。
登山口から150メートルほど登った左側にある幅15メートル程のくぼみが内堀です。内堀はここから山の西側を半周して、本丸下の北尾根まで続きます。本丸北側には城壁の残骸を見ることができます。
〜以上都留市観光協会HPより
発掘調査で根石が確認されなかったことから、石垣はこの場所の斜面上方に築造されていたようです。
石垣が築造されたのは、織豊期。
浅野長政・幸長父子が甲府城主となり、郡内に家老の浅野氏重が任命されました。
この氏重が1590年代に勝山城を近世城郭として整備しました。
本丸から北東に下ると小道の右側に一段の石積みがあります。この付近に茶壺蔵があったと考えられています。
(参考)
お茶壷道中
お茶壷道中とは、宇治(京都)から江戸(現在の東京)へ日本最高品質のお茶を将軍家へ運ぶという、江戸時代(1603〜1867)の習慣のことです。しかし、江戸の夏は暑く湿気が多いため、翌年の収穫まで茶の品質を保つのは不可能でした。そのため、1652年より、茶の一部を現在の都留にあった勝山城に持込み、山間地域の穏やかな夏の気候を活かして、秋まで保管するようになりました。涼しい空気だけでなく、富士山の神秘的な力が茶を保ち、その風味を増すと信じられていました。
お茶壷道中は、何世紀も前に終わりましたが、歴史上のこの行事を記念して、近年、毎年開催されるつる産業まつり(10月最終日曜日)で再現されるようになりました。イベントでは、侍の衣装を着た人々の行列が、大きな茶壷を運ぶ採茶使の一団のお供をします。
【なぜここに城が築かれたのか】
この571メートルの山の峰から見ると、なぜ城を建てる場所としてここが選ばれたのか分かります。渓谷全体が一望できるだけでなく、山の急な斜面は3方を桂川に囲まれ、もう1方は険しい山地で、頑強な要塞となっているからです。
三の丸の右手(東寄り)に連結されている帯郭は、城内の兵力の移動のために築かれたものです。石積みを見ることができます。
本丸南側の帯郭は、登山道で一部分断されていますが、「三の丸」から本丸真南にかけ、最も良好に当時の姿を留めています。
本丸北側にも「二の丸」に続く帯郭があり、これらの帯郭と「二の丸」「三の丸」の連結により、本丸下を一周巡り城内の兵力の移動等のために使われていました。
ここにある石積みは、当時の城壁に使われていたものです。
【石垣】
二の丸から本丸へ登る右側正面に、きれいに面取りされた石垣が土の中から顔を覗かせています。
この石垣は、近世城郭に用いられた打ち込みはぎ積によるものです。
この付近は、勝山城内で最も威容の誇示が図られている場所で、今もなお、石垣の多くは土中に埋もれています。
感想
【城名】勝山城(山梨県都留市)
【別名】−−
【場所】山梨県都留市川棚字城山
【形式】山城
【地目】−−
【立地】山地
【規模】−−
【築城】 1532年(天文元年)か
【築城者】小山田信有か
【城主】小山田氏?,鳥居氏?,浅野氏,秋元氏
【標高(比高)】571.4 m( 110 m )
【見所】石垣,土塁,郭,堀
【訪城日】2021/11/27
【訪城時間】2時間1分28秒
【歴史】
勝山城は、「甲斐国志」によると、1594年に、豊臣秀吉の臣下であった浅井長政の家老 浅井氏重によって築城されたとされていますが、近年の研究により、戦国時代の郡内領主であった小山田越中守信有が、中津森から谷村に館を移したときに、要害城として築城に着手したと考えられるようになりました。
完成後、城の所有者は何度か変わり、最も長く所有していたのは、江戸時代の秋元氏(泰朝、富朝、喬知-喬朝の3代)で、この地域(谷村藩)を1633年から1704年まで治めました。
その後、谷村藩は幕府直轄領となり、勝山城は廃城となりました。
〜以上都留市観光協会HPより
【概要】
勝山城は標高571.36mの独立峰に築かれた山城で、『甲斐国志』には、文禄3年(1594年)に浅野左衛門佐が築城と記載。しかし、戦国時代に小山田氏の詰め城として築城されたのが始まりで、天正壬午の戦いでは後北条氏により手が加えられ、その後さらに浅野氏により大規模修築が行われるなど、何度か手が加えられた。江戸時代には秋元氏により谷村城の一部として修築された。
浅野氏以前の遺構は北尾根で良好に残っており、本丸下の緩斜面では尾根を横断する幅8m、深さ2mの薬研堀、尾根先端では独立した曲輪(大沢見張り台)を取り巻く幅8m、深さ2mの堀切が発掘調査により検出され、また、同曲輪の手前には堅堀が設けられてられている。このほかにも東側尾根、南側尾根には、源生(げんしよう)見張り台、川棚見張り台などの曲輪を中心に小規模な曲輪群が設けられている。
現在確認できる縄張りは浅野氏の大規模修築によるもので、西側を意識して修築されている点が注目される。本丸には、北側に土塁、西側に櫓台が認められ、発掘調査により櫓の下には織豊時代に見られる高石垣が築かれていたことが明らかになった。また、本丸西側には二の丸、三の丸や各尾根を結ぶ帯郭が設けられており、さらに西側尾根を遮断し守りを固めるため、本丸北側下から南側尾根の下にまで続く二本の内堀が設けられている。
二の丸から本丸、本丸北側、北側尾根に石垣や石列が認められる。また、桂川の深い渓谷が天然の外堀で、南から西側には、幅30mほどの外堀跡が認められる。
江戸時代の勝山城は『甲州谷村城繪圖』などで知ることができる。本丸に建物や石垣、北・東側の曲輪には御茶壺蔵と記されており、さらに谷村城と内橋で結ばれた登城路が描かれている。発掘調査により本丸及び北側尾根に建物跡が検出され、北側尾根で検出された建物跡は半間間隔で柱が配されており、幕府御用の茶壺蔵などの貯蔵・保管施設があったと推定できる。
【アクセス】
自動車の場合
中央道河口湖線 都留IC
新宿(中央道)−大月JCT(中央道富士吉田線)−都留IC (約90分)
甲府(中央道)−大月JCT(中央道富士吉田線)−都留IC (約40分)
御殿場−須走IC(東富士五湖道路〜中央道富士吉田線)−都留IC (約45分)
電車の場合
新宿(JR中央本線)−大月(富士急行線乗換)−都留市内各駅 (約80分)
甲府(JR中央本線)−大月(富士急行線乗換)−都留市内各駅 (約60分)
【備考】-
【訪城記録】
都留市役所最寄りの谷村町駅前はひっそりとしています。
1954年周辺の自治体と合併して現在の都留市となりました。市の中心部は一駅大月寄りの都留市駅になるようです。
駅前の路地のような細い道を大月方向に進むとすぐに都留市役所があります。市役所正面に谷村城跡の案内板が立っています。遺構として曲輪、堀切があったようですが未確認です。
【甲州谷村城繪圖】
案内板によると谷村城は寛永10年(1633年)藩主となった秋元泰朝(やすとも)によって整備された。「甲州谷村城繪圖」によると現在の谷村第一小学校に置かれた主郭を中心に、市役所から高尾公園まで本丸を含めて東西にわたって四つの郭が配置され、さらに「向御屋敷(むかいおやしき)」と記された郭が南側に張り出している。また、背後の勝山城には石垣と建物とともに、内橋を利用した整備路が描かれていて谷村城の一部となっていた。泰朝、富朝、喬知(たかとも)の三代にわたって使われたが、喬知の時、川越藩に転封となり廃城となった、とあります。〜案内板より
市役所前に水車のような施設がありました。案内板があり以下のような説明が書かれていました。
【家中川水力発電】
都留の商店街沿いを流れる、小さな河川は家中川と呼ばれ、1639年の建設以来、この街の生活を支えてきました。最初は、飲料水や灌漑用の水を供給するために設計されましたが、近年は、水力発電として、市民を支えるようになりました。
現在、この川には3つの小発電所があり、親しみを込めて、元気くん1号、元気くん2号、元気くん3号と呼ばれています。元気くん1号は、都留市役所の前にあります。昔、都留にあったような、下から流れる水で回転する、伝統的な木製の水車に似せて作られましたが、古い設計を改良し、水のエネルギーをもっと効率よくとらえるために、後ろに曲がったブレードを使っています。元気くん2号は、さらに下流の、かつて、旧三の丸発電所があった場所の近くにあり、水が上から水車に落ちるという、新しい設計が特徴です。発電量は3台のうち最大です。
元気くん3号は、谷村第一小学校の隣、元気くん1号と2号の間にあります。コンパクトで、非常に少量の水でも作動可能な、最新のらせん状ブレード翼を使っています。
市役所の大月駅側に隣接して谷村第一小学校があり、道路に面したところに谷村城跡の石碑が立っています。
小学校の東側に隣接する裁判所の前には谷村陣屋跡の石碑が立っています。
【谷村陣屋跡石碑】
戦国時代に都留郡では有力国衆・小山田氏が谷村館(谷村城)を置き、谷村の地は郡内における政治・経済的中心地となり城下町が形成されていた。小山田氏の滅亡後、都留郡は徳川氏・豊臣系大名が支配し、谷村城は引き続き支配拠点とされた。近世には谷村藩が設置され、同様に谷村城が政治的拠点となった。
宝永元年(1704年)12月に谷村藩主・秋元喬知が武蔵国川越藩に転封されると、谷村藩は廃藩となり、都留郡は幕府直轄領となった。これにより、谷村には代官所が設置された。享保9年(1724年)には甲斐・国中地方においても甲府藩主・柳沢氏が転封となり、これにより甲斐国は幕領となり、国中には甲府勤番と甲府・石和・市川の代官所が設置された。
谷村代官所は石和代官所の出張陣屋となり、郡内の支配を司った。
谷村代官所は明治維新により廃止され、1872年(明治5年)には谷村裁判所となった。現在同敷地には甲府地方裁判所都留支部が建つ。〜以上ウィキペディアより
線路を背にして南東方向に進みます。街並み全体はひっそりとしていますが、市の幹線道路らしい交通量の多い道を渡って次の道路を南西方向(河口湖方向)に進むと2ブロック行ったあたりの長安寺前に小山田氏別荘跡の石碑が立っています。
【小山田氏別荘地跡(現長安寺)】
小山田氏は戦国時代に台頭した国衆。武田氏に従属化していったが、武田氏滅亡とともに滅びました。
【長安寺】
長安寺の境内は、13世紀から16世紀にかけてこの地域(都留郡)の領主だった小山田氏の別荘地だったと伝えられています。
小山田氏が滅亡した後、新しく都留郡の領主となった徳川譜代家臣の鳥居元忠は、北条氏綱の子で高僧の感貞大和尚の人柄に感激し、古い別荘を寺院に改装したことが長安寺のはじまりです。
徳川家康が都留郡を巡見した時、感貞大和尚に対面を申し入れましたが、病を理由に謁見を遠慮したので、茶葉が詰まった茶壺を下賜したと言い伝えられています。
この壺は今も寺に保管されています。
寺はその後、たびたびの火災で焼失しましたが、現在の本堂は1725年(享保10年)に再建されたものを1983年(昭和53年)に修復完成したものです。この改修の際に、本堂の屋根裏から「享保拾乙巳年八月廿八日」と記入された棟札が発見されたことから、本堂の建立日が明確となっています。
また、観音堂には武田信玄の守り本尊と伝えられている秘仏の聖観世音菩薩が祭られています。〜以上都留市観光協会HPより
そこから駅前に戻って線路を右に見て河口湖方向に細い道を進み、最初の踏切を渡り道なりに進むと富士見坂を下って桂川にかかる吊り橋状の城南橋を渡り突き当たりまで進みます。この辺りまで来るとあちこちに案内板が出ているので、それに従って進むと迷わず勝山城まで行けます。
突き当たりを右折してすぐのところに川棚口登城道が北方向に分岐しています。
川棚口登城道を左に分けて直進すると車5台くらい停められるスペースとトイレがあり、縄張り図が描かれた説明板が立っています。
案内にしたがって舗装路を進み、山道に入ります。
すぐに新ルートである内堀コースが左手に現れます。そのまままっすぐ進んでも本丸にいけますが、今回内堀コースを取りました。
なかなか大規模な内堀です。途中きつい急傾斜があります。観光協会HPの縄張り図には段差とあります。naoはここを上れず迂回して本丸に向かいました。
【内堀】
登山口から150メートルほど登った左側にある幅15メートル程のくぼみが内堀です。内堀はここから山の西側を半周して、本丸下の北尾根まで続きます。本丸北側には城壁の残骸を見ることができます。
〜以上都留市観光協会HPより
段差を過ぎると左から川棚口登城道と出合います。
内堀の北端から西口登山道が分岐しています。また、右手(東側)に進むと本丸で、まっすぐ進むと堅堀を経て大沢見張り台に至ります。
分岐の辺りには帯郭かと思われる削平地がありました。
また、このあたりに大きめの岩がいくつか転がっています。協会HPによると石垣の遺構だそうです。
【内堀内の石】
内堀に散在する大きめの石は、本丸西斜面にあった石垣が崩落したものと推測されています。
発掘調査で根石が確認されなかったことから、石垣はこの場所の斜面上方に築造されていたようです。
石垣が築造されたのは、織豊期。
浅野長政・幸長父子が甲府城主となり、郡内に家老の浅野氏重が任命されました。
この氏重が1590年代に勝山城を近世城郭として整備しました。〜以上都留市観光協会HPより
西口登山道分岐を過ぎてしばらく北側に進むと削平地があり、その北端に堅堀があります。本来は堀切と呼ばれるものでしょう。
堅堀は土橋でさらに北側の大沢見張り台につながっています。
先ほどの西口登山道分岐に戻り、本丸方向に上ります。すぐに茶壺蔵跡が左手に現れます。削平地があり、そこが茶壺蔵跡かと思い足を踏み入れましたが、ここだけ下草が刈られていなくて周囲を巡ることはできませんでした。
【茶壺蔵跡】
本丸から北東に下ると小道の右側に一段の石積みがあります。この付近に茶壺蔵があったと考えられています。
(参考)
お茶壷道中
お茶壷道中とは、宇治(京都)から江戸(現在の東京)へ日本最高品質のお茶を将軍家へ運ぶという、江戸時代(1603〜1867)の習慣のことです。しかし、江戸の夏は暑く湿気が多いため、翌年の収穫まで茶の品質を保つのは不可能でした。そのため、1652年より、茶の一部を現在の都留にあった勝山城に持込み、山間地域の穏やかな夏の気候を活かして、秋まで保管するようになりました。涼しい空気だけでなく、富士山の神秘的な力が茶を保ち、その風味を増すと信じられていました。
お茶壷道中は、何世紀も前に終わりましたが、歴史上のこの行事を記念して、近年、毎年開催されるつる産業まつり(10月最終日曜日)で再現されるようになりました。イベントでは、侍の衣装を着た人々の行列が、大きな茶壷を運ぶ採茶使の一団のお供をします。〜観光協会HPより
茶壺蔵を過ぎて登っていくと木立の間に本丸が見えてきます。本丸はダイヤ型で下半分を伸ばしたような形をしています。凧のクラシックダイヤ型と呼ばれるものです。
本丸の下に道が通っていて茶壺蔵から登ると本丸の北の先あたりに至ります。北から南東方向に進みますが、そこに石垣跡が残っています。
本丸は下半分を長く伸ばしたダイヤのような形です。下草はよく刈り取られていて歩きやすくなっています。東端には説明板が立っており、トイレがありますが使う気にはなりません。西端には谷村第一小学校敷地から移設された東照宮が祀られています。
本丸から富士山が見えるとのことですがわかりませんでした。
東下には焔硝蔵跡が、南東下には帯郭が、南西下には二の丸、三の丸がよく見えます。南東方向さらに遠くを見ると谷村の街並みが一望できます。
【東寄りの帯郭】
三の丸の右手(東寄り)に連結されている帯郭は、城内の兵力の移動のために築かれたものです。石積みを見ることができます。
本丸南側の帯郭は、登山道で一部分断されていますが、「三の丸」から本丸真南にかけ、最も良好に当時の姿を留めています。
本丸北側にも「二の丸」に続く帯郭があり、これらの帯郭と「二の丸」「三の丸」の連結により、本丸下を一周巡り城内の兵力の移動等のために使われていました。
ここにある石積みは、当時の城壁に使われていたものです。
【なぜここに城が築かれたのか】
この571メートルの山の峰から見ると、なぜ城を建てる場所としてここが選ばれたのか分かります。渓谷全体が一望できるだけでなく、山の急な斜面は3方を桂川に囲まれ、もう1方は険しい山地で、頑強な要塞となっているからです。〜観光協会HPより(以下【】付きの記述は都留市観光協会HPより引用しました。)
【石垣】
二の丸から本丸へ登る右側正面に、きれいに面取りされた石垣が土の中から顔を覗かせています。
この石垣は、近世城郭に用いられた打ち込みはぎ積によるものです。
この付近は、勝山城内で最も威容の誇示が図られている場所で、今もなお、石垣の多くは土中に埋もれています。
【焔硝蔵跡】
本丸から東側に下ったところにある平坦地が焔硝蔵跡です。この先から本丸を見上げると、山城らしい風景を見ることができます。
焔硝蔵跡の東側尾根の先端に源生(げんしよう)見張り台跡があるようですが、そこまでの道はないようで行けませんでした。
その後本丸に戻って二の丸、三の丸から川棚見張り台を通って戻りました。
【二の丸】
三の丸から「く」の字に折れ曲がった登山道を登ると、左手に広がるのが二の丸です。二の丸の北側に曲輪が続き、城の北側をぐるりと回ることができます。
【三の丸】
川棚見張台からしばらく登ると、急に道が険しくなり、一連の土塁によって道が鋭角に曲がるようになります。この先の左側の一段高くなった平坦地が三の丸です。
三の丸入り口付近の登城路は屈折していて虎口のようにも見えます。
【川棚見張台】
内堀から160メートル程登ったところにある平坦地が川棚見張台です。この川棚見張台は、お城の西側の監視・押さえとして築かれたものです。
▼ガーミン軌跡
https://connect.garmin.com/modern/activity/7884388966l
▼これまでの訪城記録
http://nack1003.livedoor.blog/archives/6463470.html
▼攻城団
https://kojodan.jp/profile/11671/
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