三角岳



- GPS
- --:--
- 距離
- 8.9km
- 登り
- 522m
- 下り
- 524m
コースタイム
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2022年02月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
|
コース状況/ 危険箇所等 |
お爺婆山西稜線は険しい |
写真
感想
世界遺産となっている三角西港の駐車場に車を止め、三角岳西尾根の先端部にある霧島権現宮から登り始めた。本殿には“三角権現社”とあり一寸混乱する。境内からは三角ノ瀬戸を挟んで天草の大矢野島の先端にある柴尾山(226m)の急峻な山容と三角ノ瀬戸の出口の真ん中に浮かぶ中神島(82m)が円錐形に屹立し素晴らしい。神社裏山の先の括れに架かる跨道橋は黄色いテープが張られ通行止めとなっているがそろりとわたってお爺婆山への縦走路に取付いた。P69に達すると天草展望台で東屋が設置されているが木が成長し展望は良くなかった。
お爺婆山の西尾根を登って行くと道は険しく滑り易く、固定ロープに助けられた。一枚岩の5m程の岩壁が現れたが此処にはロープはなくフリークライミングを強いられた。お爺婆山(おじんばやま245m)に達すると大岩が2つ寄り添うように立っていた。お爺婆山には物語がある。寛政6年(1792)雲仙岳の噴火に伴い発生した眉山の山体崩壊に依り発生した大津波は「島原大変肥後迷惑」と呼ばれている。大津波は対岸の肥後に達し大被害を齎した後、取って返して島原の海岸を襲った。物語はこの時のことで、老いた両親の元、魚彦と云う親孝行な漁師がおり、ある日漁に出たまま帰らなかった。両親は毎日裏山に登り魚彦の姿を求めた。あの日裏山から下りてくると島原の海面が大きく盛り上がるのが見えた。両親は「魚彦の顔が見える、声が聞こえる。」と互いに言いながら波に呑まれていった。その後お爺婆山には二つの寄り添う岩が見られるようになったと云う物語だ。
お爺婆山からは谷に下り、暫く谷筋を歩き三角岳西尾根に取り付くと傾斜は緩くなり三角岳(405m)山頂に達した。1等三角点「三角山」が置かれ三角岳神社が鎮座していた。北と西方向に展望があり小広い山頂にはベンチが置かれ男性が二人休憩していた。その後10人を越える団体が到着し一気に賑やかになった。山頂の大岩に刻まれた男女の像はネクタイを締め手には山高帽子を持ち真ん中には菊の御紋章、此はいつの時代かの天皇陛下を彫ったものようだ。後から来た団体の中の女性の解説によると戦前、元旦には皆で未明に登り焚き火をしてご来光を待ち日が上ると「天皇陛下万歳」を唱和したという。昔はもっと皇室所縁の石像があったらしい。
皆が登って来た方向に下り出すと格段に整備された道となり200m余り下り登り返すと雲竜台(220m)に到った。展望がよく振り返ると三角岳が存在感を持って聳えていた。11年前に行った高野山も望むことができた。昼近くになり山頂を目指す沢山の登山者が登ってきて人気の山であることが知れた。天翔台への分岐に達し、巻き道から稜線に乗り上がり先端の天翔台(205m)に到った。電波塔と4等三角点「三角浦」があり、傍らに“池田清蔵”の碑が設置かれていたがこれは一体誰なのだろう?
三角駅への下山路に戻るべく歩き出そうとすると「宇城市三角支所→」への下山路が分岐していたが地形図にも載っていないので予定通り三角駅への下山路へと今度は稜線ルートを通ると尾根の先端部で縦走路に出て来た。際崎の住宅地に下り立ち国道57号線に抜けて三角西港駐車場に戻った。ザックを車に置いて嘗て石炭の積み出しで賑わった三角西港の遺構を歩いた。全長756mに及ぶ石積埠頭は排水路と共に国の重要文化財に指定されている。このエリアには明治の建造物が保存されている。浦島屋、龍驤館(りゅうじょうかん)、高田回漕店など当時の活発な石炭積み出しが偲ばれる。また高台には旧三角裁判所や旧宇土郡役所庁舎の建物も文化財として公開されている。
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