熊野古道・中辺路(滝尻~本宮)☆ 雨に祟られながらのテン泊縦走


- GPS
- 13:57
- 距離
- 42.2km
- 登り
- 2,184m
- 下り
- 2,218m
コースタイム
- 山行
- 5:13
- 休憩
- 0:15
- 合計
- 5:28
- 山行
- 7:40
- 休憩
- 0:49
- 合計
- 8:29
天候 | 1日目;曇り時々雨 二日目;雨のち曇り |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2025年10月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス
|
コース状況/ 危険箇所等 |
良好に整備された歩道 |
写真
感想
高野山から熊野本宮へと至る小辺路を縦走し、さらに紀伊勝浦の海辺まで中辺路を歩いたのは二年前、新緑の鮮やかな連休の季節のことだった。以来、熊野本宮へと至る中辺路の前半部分を歩いてみたいと思っていたのだが、最近になって読んだ宇江敏勝氏の本でこの中辺路の周辺の山あいで暮らす人々の昔の生活が美しい抒情と共に描かれており、この中辺路に対する憧憬の念を強くしていたのであった。
滝尻から熊野本宮までも距離にして35km以上であり、途中での一泊必要となり、早朝に京都を出発すると近露にキャンプ場があるので、ここを予約する。近露のあたりは民宿が数多く集中し、この中辺路ルートを歩くにあたっては宿泊地としても格好なのだろう。
新大阪から南紀に向かう特急くろしお1号が紀伊田辺駅に到着すると早速にも熊野本宮に向かうバスの停留所には長蛇の列ができる。。バスの発車時刻が近づくと、「滝尻only]という声と共にプラカードを掲げたバス会社の人が現れると、ハイカー達は全てそちらの列に移動する。驚いたことに滝尻に向かうハイカーは我々を除いては全て外国人であり、日本人の姿は見当たらない。この熊野古道の中辺路を紹介するネットのサイトで歩いているのは8割から9割は外国人と記されており、まさか・・・と思ってはいたが、バスの乗客から判断する限りは外国人の割合はそれ以上だ。
バスの車内ではさまざまな言語が飛び交い、賑やかだ。英語、フランス語、中国語・・近くに席に座ったcomstellaのガイド・ブックを相棒に見せている。外国人にとってこの熊野古道が人気なのは、単なる長距離のトレイル・ウォークではなく、巡礼の道という意義が大きいのだろう。もちろん、ユネスコの世界遺産に登録されたということが大きいのであろうが。
滝尻で下車すると富田川にかかる橋を渡り、熊野古道歩きを開始する。ここから道標が整備されているが、雑木林の中の急登を登り始めると気温はさほど高くないが、湿度が高いのですぐにも汗をかくことになる。すぐに胎内くぐりと呼ばれる大岩が現れる。岩の狭い間隙を潜り抜けると安座するという謂れがあるらしいが、その隙間はかなり狭い。背後からはフランス語を話す若者3人の喋り声が盛んに聞こえてくる。
急登を登きった先にあるピークでは小さなケルンが積まれている。その前に無造作に置かれた山名標により剣ノ山と呼ばれる山であることを知る。次のピークの飯盛山にかけてはそれまでの急登は一転して、なだらかな尾根が続く。山道より下の斜面には植林が広がっているが、尾根の上には広葉樹の疎林が広がっており、森林公園の遊歩道のような雰囲気となっている。飯盛山のピークは古道からわずかに外れることになるが、「展望台」とあるので立ち寄ってみる。狭い山頂からは北側に展望が広がっており、眼下には小学校のような大きな赤い屋根が見える。
飯盛山の山頂を過ぎるとすぐに前を歩く外国人のカップルに追いつく。出身を聞いてみると、スコットランドのエディンバラとのことだった。若い頃、エディンバラから北のスコットランドをスカイ島に至るまで旅行したことを話すと目を輝かせて喜ばれる。
やがて尾根上に民家が現れる。広々としたウッド・テラスを備えた家があるかと思えば、リトリート高原(たかはら)とある。このあたりは高原と呼ばれる集落らしいが、山の上にこのような集落があること自体が驚きだ。古道とほぼ並行して、尾根の南側に舗装路が通じている。田辺市のコミュニティ・バスが運行しているようだが、運行日は一週間に一度、木曜日に限られるようだ。
道路と交差する箇所には霧の里の休憩所があり、中国人の女性4人のハイカーが休憩しておられる。北側に大きく展望が広がりる。谷を挟んで対峙する山並みは左手の電波塔を山頂に戴いた山は笠捨山から右手の果無山脈へと続いてゆく。果無山脈の山の頂は雲nに覆われているが、山容がなんとも大きく感じられる。休憩所の近くでは彼岸花が色鮮やかな真紅の花を咲かせていた。
休憩所からは民家の間の細い小径を登ってゆく。すぐ左手の趣のある古民家の入口にjuice, ice candyが\100と英語で記された案内板が掲げられている。民家の軒先にお邪魔させていただくと、縁側に掛けられた簾の背後に冷蔵庫があり、数種類のペットボトルが冷されている。冷凍庫を開けてみると中には確かにアイスキャンディが色々と並んでいる。折角なので、家内と私で一本づつ頂戴し、縁側に無造作に置かれた茶碗の中に2枚の百円玉を放り込む。それにしても軒先に冷蔵庫を出して旅人に提供するとはこの家の方の善意に頭が下がる思いだ。手入れの行き届いた純和風の庭園の庭先では樹にはは大きな柿の実が熟していた。
細い路地の周辺はuest houseと書かれて古民家が目立つ。中辺路のガイド・ブックではこの小径は旧旅籠通りと記されており、旅籠が多かったのだろう。集落の上の高台にあるゲスト・ハウスではカフェになっているようで、見晴らしの良さげな店内では客人がおられるようだった。
そういえば、先ほどから道沿いのゲストハウスは片っ端から英語表記で、日本語を見かけないが、この古道を歩く人がほとんどが外国人であるが故なのだろう。ゲスト・ハウスの折しも小雨が降り始め、周辺の山々の展望が急速に霞んでいく。休憩していきたいところではあるが、まだまだ先が長いので、先を急ぐことにする。
十丈峠に向かって植林の中に入るとすぐにも雨は止んでくれる。何組かのハイカーとすれ違うが、ご多分に漏れずいずれも外国人ばかりだ。十丈峠では中年の女性二人が休憩しておられた。顔立ちは日本人のようにも見えたが、会話に耳を澄ますと中国語のようであった。休憩所のトイレは使用禁止になっていたが、峠からわずかに下がったところに新たにトイレが設けられていた。トイレの中のゴミ箱は弁当類などのゴミで溢れているが残念であった。本来はそのような目的のために設置されたものではなかった筈である。
峠を過ぎると悪四郎山の北側をトラバースしてゆく。説明板によると、悪四郎とは非常に力の強い伝説的な若者のことで、悪とは善悪の悪ではなく、非常に強いもののことを意味するものであったらしい。8人組のパーティーに追い付くが、初めて日本語が聞こえてきた。滝尻から歩き始められたらしいが、前日は白浜の温泉に宿泊され、そこからシャンボ・タクシーをチャーターして来られたらしい。
三体月(さんたいづき)の説明文があり、鑑賞場所への分岐が現れる。三体月とは修験者が三体の月を見て不思議な力を得たという伝承に基づくものであり、急激な冷え込みにより大気が乱れて月がそのように見えた可能性が幻月の可能性が考えられているらしいが、実際に三体月を見た人はいない筈である。説明文を読んだ外国人の若いカップルが三体月を見るために11月23日にここに戻って来ようかという話をしているのが聞こえた。11月23日というのはあくまでも旧暦である。旧暦上の日付は年によって新暦上の日付が変わるらしいが、今年度の旧暦11月23日は来年の1月11日に相当するらしい。調べてみると確かにその日に三体月の鑑賞会がここで行われるらしい。
尾根をトラバース気味に下降してゆくと、尾根上を走る舗装路と交差する。逢坂峠と呼ばれる峠であり、先ほどの悪四郎山から逢坂峠に至る稜線は北西を流れる富田川と南東を流れる日置川との分水嶺となっている。
菅笠を背後に背負って歩く男女に追い付く。流石にこの出立は日本人だろうと思い、こんにちはとお声がけすると、先方は「今日初めて出遭った日本人だ」と喜んで下さる。牛馬王子に辿り着くと、牛と馬に跨った可愛らしい童子の石像があり、その前ではガイドさん達が数組のグループを率いて説明をしておられる。
牛馬王子を過ぎると近露にかけて石畳の道となる。ここでも別のガイドさんが石畳の話をしておられるのが聞こえてくる。今から35年前、当時の文化庁が由緒ある日本の道を三つ選ぶということになり、奥の細道、中山道と共に熊野古道が選ばれたらしい。その当時、文化庁が雰囲気を盛るために随所に石畳を敷いたらしい。
折しも、小雨が降り始める。既に石畳は小雨に濡れ初めているが「雨に濡れるとこの石畳は途端に滑りやすくなるので皆さん気をつけて!石の角に足を置くようにして歩くといいですよ」というガイドさんの声が後から聞こえてくる。
熊野古道を紹介する写真は大概はこの石畳の道であり、てっきり昔の人が石を敷いたものと思っていた。しかし、石畳は集落の近くばかりでわずかな区間のみに見られることが不自然に思われていたが、その理由も理解できる。雨に濡れていなくともこの石畳はいずれも非常に歩きにくく、濡れると転倒の危険性がかなり高い。石を敷くのはかなりの重労働であっただろうが、果たして写真以外には意味のあった作業だったのだろうか・・・
近露の集落に入ると、橋を渡ったところには広々とした敷地にガラス張りの近代的な建物が目を惹く。なかへち美術館である、長期休館中らしい。美術館を建設したのは金沢の21世紀美術館を手がけて世界的に有名になった建築家グループが最初に手がけた美術館らしい。建物を見ることが出来ないのが残念だ。
美術館から広い通りを5分ほど歩くと、国道の手前にA-coopがある。今回はここで食料を調達することが出来るので、食料を携行せずに済むのだった。龍神しいたけと銘打たれた大きな椎茸が三つで¥198で売られている。このあたりは椎茸の産地なので流石に良いものが安く手に入れることが出来るのだろう。日本酒は目ぼしいものがなかったが、熊野古道ビールを入手する。
熊野古道のルートに戻ると通り沿いに井谷酒店と杉中酒店という2軒の酒屋がある。いずれも古民家の佇まいである。手前の井谷酒店に入ると薄暗い店内の奥に和歌山の日本酒、黒牛と太平洋が棚に並んでいる。熊野の米、熊野の水で醸した酒という言葉に惹かれ太平洋を選ぶ。店内では小さなみかんがビニール袋に5つほど入って¥100で売られている。
隣の古民家の軒先では数多くの酒器や食器が売られている。重くなるので流石に食器には手を出さなかったが、一つ¥100で売られている瑠璃色の美しいお猪口を二つ入手する。店内は完全に無人であり、会計は隣の井谷に払う仕組みになっている。買い物をしている時には気がつかなかっったが、一般家庭にしては明らかに酒器が多く、昔は旅籠を営んでいたであろうことに店を後にしてから思い至る。
この日の宿泊は近露の集落の北側の外れにあるアイリス・オートキャンプ場である。名前は洒落てはいるものの、果たしてこの先にキャンプ場があるのか・・・と疑問に思うほどに寂れた場所である。雨足が強くなり、テントを張るのが躊躇われるような天気ではある。キャンプ場のバンガローに泊まることも考えたが、こういう時に便利なのは雨雲レーダーである。すぐにも雨雲が通り過ぎることがわかり、予定通りテントを張ることにする。
広いキャンプ場は既にテントが二つ張られていた。一つはモンベルのステラリッジなので、どうやら日本人なのだろう。まずはキャンプ場に併設されている温泉に入浴する。温泉は湯船に幾つかの洗い場があるだけの簡素なものであるが、泉質はぬるりとした湯触りの典型的なアルカリ性の温泉であり、龍神温泉に似た泉質と思われる。日帰り温泉は休止しているとのことなので、温泉の恩恵に与ることが出来るのは宿泊客に限られるのだが、それほどの宿泊者がいる訳でもないだろうに、勿体ないように思われるのだった。
温泉から上がると、雨も上がっていた。テント場には続々とテン泊の客が到着する。いずれも熊野古道を訪れた外国人である。男女3人のパーティーは滝尻から我々のすぐ後を歩いていたフランス人であった。広場の一角、いろは楓の下にテントを張る。BBQ場でまずはA-coopで購入してきたいわしと鳥の天ぷらを温めてビールで乾杯する。次いでフライパンで黒毛和牛と龍神椎茸をフライパンの上で温めるが、やはり椎茸の美味しさが鮮烈である。
日本酒の太平洋を開けると、一人の日本人男性が入ってきた。大阪から車でいらしたらしく、テントをこのキャンプ場にデポしたのちに車を熊野本宮の近くに停め、朝のバスで滝尻に移動されてから熊野古道を歩いてこられたらしい。男性にも椎茸と牛肉をご賞味いただくが、椎茸の美味しさに舌鼓を打って頂いたようだ。
男性からこの10月1日から熊瀬川谷から岩上峠を達るルートが通れなくなり、代わりに谷神峠を通るルートを通るようになったという情報を教えて頂く。谷神峠を経るルートは2011年の地滑りにより通行止めとなっていたので、14年ぶりの開通ということになるようだ。
BBQ場にはフランス人のパーティーの他、単独行のイスラエル人の男性、スペイン人女性も入って来て、賑やかな宴会となる。フランス人のうち男性二人は日本語が相当に堪能である。皆さんと話をするうちに急速に時間が過ぎ、気がついたら家内と太平洋の四合瓶を空にしていた。BBQ場の外に出てみると、太鼓と笛の音が聞こえる。どうやら近露の集落では秋祭りが行われているのだろう。
未明に目が醒めてテントの外に起き出してみると、テントのすぐ近くには大きな雄鹿がいた。さらに近くの草むらからはギャッ、ギャッという鳴き声が聞こえ、猛烈な勢いで闇の中に逃げ込んでいく動物がいる。キツネだろう。
家内も起き出して、BBQ場でコーヒーを淹れると、隣のスペイン人女性は早くもテントをたたみ始めている。キャンプ場を出発して時点ではまだ薄暗かったが、近露の集落を通る熊野古道に戻る頃には空は既に十分に明るくなっていた。古道沿いの民宿では明かりがついて朝食の準備をしているようだ。
村はずれの植林の樹林を抜けるとしばらくは山腹をトラバースする舗装路が続く。道沿いには頻繁に民宿が現れるが、廃屋となっている古民家も少なくない。道路の上下に広がる段々の平坦地はかつては水田だったのであろう。斜面には美しい棚田の景色が広がっていたに違いない。道路より上の平坦地には樹齢二~三十年と思われる杉の樹が育っている。土地を離れる際に杉や檜を植林することが多いと聞く。
小広峠を過ぎるとトイレがあり、古道は舗装路から分岐して植林の中の山道となる。?王子に向かって、颯爽とトレラン・スタイルの男性二人が登ってゆくところであった。
熊瀬川谷に下降すると再び舗装路と交差する。昨日、近露の手前でお会いした日本人のご夫婦と再会する。近露では素泊まり専門の民宿に泊られたとのことであるが、自炊も出来るところだったらしい。以前にもご夫婦で同じ民宿に泊まれたとのことだったので、この熊野古道をリピートされておられるようだ。
谷神峠に向かうには林道と交差して、道を直進することになる。トラバース気味に斜面を登って行くとやがて広々とした伐採地に出る。ポツポツと小雨が降り始めた。伐採地を横断して、尾根を乗り越える箇所が谷神王子の跡である。谷神王子から降っていくと道沿いには急に真新しい道標が現れる。最近になって整備された道なのだろう。
再び林道と交差し、谷を降って行くといよいよ雨が本降りとなる。予報では曇りであり、雨が降らないことを期待していたが、傘を持参してのは正解であった。古道はほぼ谷沿いのほぼ水平な道となる。ふと足元の地面を見ると、大きなヒルが体をくねらせているのが目に入る。今のところ足に取り付いているヒルはいないようであった。
おぎん地蔵に差し掛かると、案内板に謂れが紹介されている。おぎんは京都の若い芸妓であったが、この地の豊之承という若者を慕ってはるばる京都から旅してきたところ、目的地を目前にして二人の追い剥ぎに命まで奪われる。不憫に思った村人達が地蔵を祀ったということである。追い剥ぎが二人と同定されているということは、おぎんの命を奪った者達がその後、同定されたということだろう。降りしきる雨のせいかこの場所がいっそう陰気に思われるのだった。
小さな川を渡り、湯川一族の墓を過ぎると道の周囲に平坦地が現れる。かつての道湯川(どうゆかわ)の集落の跡らしい。平坦地には杉の樹が育っているが、かつては民家がより集まり、耕作が行われていたのであろう。湯川王子には小さな祠があり、いよいよ雨足が強くなってきたので、祠の下で雨宿りをする。歩いている間はすれ違う人もなく、人の気配が感じられなかったが雨宿りしている間には次々と古道歩きの人が通り過ぎて行く。一人を除いてはいずれも外国人であった。
少し雨が小降りになったと思われたので、三越峠に歩を進める。峠には休憩所があり、先を歩いてたスペイン女性やトレラン・スタイルの男性二人組を含め、多くの人が雨宿りをしておられた。すぐにも昨夜、キャンプ場でご一緒だった大阪の男性も到着される。テントは昨日のアイリス・キャンプ場において来られたらしく、軽い荷物で颯爽と雨の中を出発して行かれる。
雨宿りをするうちに雨足が弱くなってきたかと思われたので、三越峠から下ることにする。再び山中に忽然と数多くの石垣と広い段丘が現れる。ここは道ノ川の集落跡らしい。道湯川と同様、平坦地に杉が大きく育っているが、かつては山あいに美しい集落の景色が広がっていたことだろう。
集落跡を過ぎると林道に出る。林道に出る手前では谷の左手の立派な大樹がある。ここは以前の豪雨による土石流が生じたところであるが、その中から再生した樹らしい。まもなく雨も上がり、以前の大雨による土石流から蘇生したという樹のある音無川沿いの谷に出ると、しばらくは林道が続く。赤木越への分岐を過ぎ、小さな谷を登り詰めると、発心門王子である。
ここは紀伊田辺からのバスの終点でもあり、バスで来る人もおられるのだろう。何人もの観光客を連れてガイドさんが案内している。しばらくは展望の良い舗装路を歩くが、再び植林の中をトラバースしながら進むと濃い霧が立ち込て、幻想的な雰囲気となる。
伏拝(ふしがみ)王子に出ると、その前のカフェでは温泉コーヒと紫蘇ジュースを\200で提供しており、多くの人が休憩しているようだ。小さな蜜柑と赤飯も売られていたので、ここでランチ休憩をとる。赤飯は\250であったが、栗がかなりたくさん入っており、贅沢であった。
再び山道に入ると三軒茶屋で小辺路ルートと合流する。熊野本宮までは小さな丘陵をトラバースしながら進む。このあたりでは石の階段が整備されているが、石は角が取れて丸いのものばかりなので、おそらくは河原から運んできたものなのだろう。一見、見た目は良いが、足を載せる場所がほとんどないの、歩き難い。これも文化庁の予算により整備されたものなのであろう。
以前、小辺路を歩いた時には相当な数の人がこのあたりを歩いていたのだが、連休だったからだろう。この日は人の気配をほとんど感じない。たまに見かける人はやはり外国人ばかりだ。道が再び敷き詰められた石畳の下りとなるといよいよ本宮も近い。
山道を抜けると唐突に家の立ち並ぶ住宅地に出る。熊野本宮の拝殿の傍に出る。本宮の奥にある社殿には前回は参拝客が長蛇の列を作っていたが、この日は人が少ないせいもあり全ての社にお参りをする。
大斎原の大鳥居をくぐって、その奥の森を訪れる。ここは明治22年の大水害により、社殿が悉く濁流に押し流されるまでは本宮があったところである。今は広い芝生の広場が広がっているばかりではあるが、現在の本宮があるところよりもさらに神聖な場所に感じられる。
大斎原から本宮の前にあるバス・ターミナルに戻るとすぐにも紀伊田辺を経て白浜に向かうバスがやってくる。バスに乗り次のバス停の渡瀬温泉まで移動することにする。
この温泉は数年前に果無山脈を縦走した後に長男と訪れたことがあるのだが、広々とした露天風呂が開放感がある。硫黄泉でありながら湯ざわりが柔らかく、泉質が上等に思われる。脱衣所で靴下を脱いでみて驚いたことに、なんと、左足に三箇所もヒルに吸血された痕がある。靴下の網目の隙間から入り込んで、吸血されたようだ。いずれの傷からは出血が続いていたが、傷病に効くという温泉の効能だろうか、湯に入るとすぐにも止血が得られた。
ふと顔を見上げると、昨日のキャンプ場でご一緒した大阪の男性が温泉に入ってくる。我々が三越峠で雨宿りしている間に降り頻る雨の中を先に出発された筈であるが、途中の赤木越の手前で林道を直進し、大幅にルート・ロスをされたらしい。昨夜、熊野本宮のすぐ近くに蘇生の湯という日帰り温泉に行くつもりであることを教えて頂いていたのだが、その温泉は入浴時間は15時からだったらしく、この渡瀬温泉に移動して来られたとのこと。
入浴後、紀伊田辺まで車で送って下さると仰るので、ご厚意に甘んじることにした。お陰様で湯上がりにビールを飲みながら、さんま寿司と蕎麦でのんびりと食事をとることが出来る。近露まで車ではわずかな距離である。再び昨日のA-coopに立ち寄ると、龍神椎茸と地元産のこんにゃくを入手する。さらに近梅の道の駅にも立ち寄って頂き、栗を手に入れることが出来た。
男性とお話するうちに紀伊田辺の駅にはすぐにも着いてしまったように思う。お住まいの近くまでともご提案いただいたが、既に帰りの特急くろしお号の席を予約しているのだった。言葉の節々に人柄の良さが滲み出るような方であった。男性とお別れすると、特急の時間までは駅前の海鮮料理屋でウツボの薄造りやカツオの刺身に舌鼓を打つ。
帰路の特急は我々の他にはほとんど乗客が見当たらない。紀伊田辺の駅を出ると車窓には芒洋とした太平洋の闇が広がる。雨に祟られたものの、古道歩きの良さを堪能した充実した二日間であった。
コメント
この記録に関連する登山ルート
この場所を通る登山ルートは、まだ登録されていません。
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雨でも楽しそうですね。
やまいずさんの健脚ぶりに👏。
自分で調べもせずに申し訳ありません。
「王子」は何を意味するのでしょうか。
コメント有難うございます。
王子の説明を失念しており、失礼致しました。熊野詣の皇族、貴族の道中の安全を祈念するわための神社で、修験道の山伏達によって設けられたようです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/九十九王子
ありがとうございました。
いろいろ教えてください。
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