今日も天気がいいです。この前来た時は薄暗くなっていましたが、天気がいいとまた違う趣きがあります
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12/6 9:37
今日も天気がいいです。この前来た時は薄暗くなっていましたが、天気がいいとまた違う趣きがあります
伊藤本陣址
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12/6 9:45
伊藤本陣址
旅籠玉屋歴史資料館、見学できます(300、関まちなみ資料館と共通券)。なかなか良かったです(^^)
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12/6 10:10
旅籠玉屋歴史資料館、見学できます(300、関まちなみ資料館と共通券)。なかなか良かったです(^^)
創業380年の深川屋。銘菓「関の戸」を買いました!(^^)!(3種各2個ずつ盛合せで760)
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12/6 10:11
創業380年の深川屋。銘菓「関の戸」を買いました!(^^)!(3種各2個ずつ盛合せで760)
会津屋(旧山田屋)仇討ちの小万の生家。現在はそば屋さんのようですね
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12/6 10:23
会津屋(旧山田屋)仇討ちの小万の生家。現在はそば屋さんのようですね
それにしても関宿は本当に街並みが良く保存されています
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12/6 10:27
それにしても関宿は本当に街並みが良く保存されています
関宿はココで終わりです。昔の趣きを感じる事ができました
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12/6 10:37
関宿はココで終わりです。昔の趣きを感じる事ができました
関宿、西の追分。この先は大和街道となり加太峠を越えて伊賀、奈良へと続きます。また機会があれば、こちらにも行ってみたいです
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12/6 10:39
関宿、西の追分。この先は大和街道となり加太峠を越えて伊賀、奈良へと続きます。また機会があれば、こちらにも行ってみたいです
後ろの山が筆捨山。歌川広重の浮世絵「筆捨峰」は、ここの集落にあった藤の茶屋で描いたのかもしれません。鈴鹿川渓谷はこの集落の向こうに流れています
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12/6 11:20
後ろの山が筆捨山。歌川広重の浮世絵「筆捨峰」は、ここの集落にあった藤の茶屋で描いたのかもしれません。鈴鹿川渓谷はこの集落の向こうに流れています
歌川広重 浮世絵、阪之下「筆捨峰」
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歌川広重 浮世絵、阪之下「筆捨峰」
坂下市之瀬一里塚跡
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12/6 11:29
坂下市之瀬一里塚跡
鈴鹿峠は手前の尾根の向こうになります。まだもうちょっとありますね
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12/6 11:47
鈴鹿峠は手前の尾根の向こうになります。まだもうちょっとありますね
坂下宿に入ってきました。各宿場の木標が立ってます
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12/6 11:54
坂下宿に入ってきました。各宿場の木標が立ってます
松屋本陣跡。バス停があります、このバスを利用しようかと計画立案時に検討しましたが使わずに済みました。
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12/6 12:11
松屋本陣跡。バス停があります、このバスを利用しようかと計画立案時に検討しましたが使わずに済みました。
坂下宿はここまで、規模的には大きくないです
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12/6 13:00
坂下宿はここまで、規模的には大きくないです
坂下荒井谷一里塚跡(推定)
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12/6 13:12
坂下荒井谷一里塚跡(推定)
いよいよ鈴鹿峠越えです、右手の小道に進みます
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12/6 13:14
いよいよ鈴鹿峠越えです、右手の小道に進みます
坂下宿は1650年頃の大洪水に見舞われて壊滅し現在地に移転されましたが、元々はここ古町と言われる場所にありました。当時は寺社の他に人家が111軒あったそうで結構大きかったようです。
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12/6 13:22
坂下宿は1650年頃の大洪水に見舞われて壊滅し現在地に移転されましたが、元々はここ古町と言われる場所にありました。当時は寺社の他に人家が111軒あったそうで結構大きかったようです。
石垣などが残っていて往時の旅籠や茶屋の名残があります
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12/6 13:24
石垣などが残っていて往時の旅籠や茶屋の名残があります
片山神社。紅葉が美しいですね
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12/6 13:25
片山神社。紅葉が美しいですね
山道っぽくなってきて思ったより急登です
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12/6 13:30
山道っぽくなってきて思ったより急登です
左手に馬の水のみ鉢があります
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12/6 13:37
左手に馬の水のみ鉢があります
鈴鹿峠に出ました。稜線への分岐もあります
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12/6 13:44
鈴鹿峠に出ました。稜線への分岐もあります
近江の国に来ました、万人講常夜燈。高さ5.4m、重さ38トンだそうです(O_O)
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12/6 13:53
近江の国に来ました、万人講常夜燈。高さ5.4m、重さ38トンだそうです(O_O)
国道1号線沿いを黙々と歩きます
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12/6 14:07
国道1号線沿いを黙々と歩きます
土山宿ではこのような案内板をあちこちで見かけます
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12/6 14:36
土山宿ではこのような案内板をあちこちで見かけます
山中一里塚公園
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12/6 14:49
山中一里塚公園
猪鼻村に来ました。坂下宿と土山宿の間の立場です
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12/6 15:01
猪鼻村に来ました。坂下宿と土山宿の間の立場です
旅籠中屋跡、明治天皇聖磧碑
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12/6 15:07
旅籠中屋跡、明治天皇聖磧碑
猪鼻村立場はここまで
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12/6 15:11
猪鼻村立場はここまで
榎島神社(この先にある白川神社の末社)。右手にあるのは御神木の椎の木、樹齢400年!ふるっ
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12/6 15:21
榎島神社(この先にある白川神社の末社)。右手にあるのは御神木の椎の木、樹齢400年!ふるっ
旧田村橋(現:海道橋)、歌川広重の浮世絵「春之雨」が描かれた場所ですね。この橋の左側から右手奥にある田村神社を向いて描いたと思います
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12/6 15:41
旧田村橋(現:海道橋)、歌川広重の浮世絵「春之雨」が描かれた場所ですね。この橋の左側から右手奥にある田村神社を向いて描いたと思います
角度的にはこんな感じかな
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12/6 15:42
角度的にはこんな感じかな
歌川広重の浮世絵、土山「春之雨」
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歌川広重の浮世絵、土山「春之雨」
土山宿入口に来ました
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12/6 15:56
土山宿入口に来ました
土山宿はこのような表札が所々掲示されてます。良くわかりますね(^^)
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12/6 16:10
土山宿はこのような表札が所々掲示されてます。良くわかりますね(^^)
土山一里塚跡
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12/6 16:18
土山一里塚跡
この辺りが土山宿の中心地。中央の少し右に二階屋本陣跡が見えます
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12/6 16:32
この辺りが土山宿の中心地。中央の少し右に二階屋本陣跡が見えます
明治天皇聖磧碑、土山本陣跡
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12/6 16:39
明治天皇聖磧碑、土山本陣跡
大黒屋控え本陣跡。ここにも明治天皇聖磧碑があります
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12/6 16:44
大黒屋控え本陣跡。ここにも明治天皇聖磧碑があります
土山宿場町はここまでです
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12/6 16:52
土山宿場町はここまでです
二つ道標がありました。左側の道標は「たかのよつきかんおんみち」天明八年(1788)、右側は「右、北國たが街道、ひの、八まんみち」文化四年(1807)、主に多賀大社への参道に導いてます。
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12/6 16:56
二つ道標がありました。左側の道標は「たかのよつきかんおんみち」天明八年(1788)、右側は「右、北國たが街道、ひの、八まんみち」文化四年(1807)、主に多賀大社への参道に導いてます。
だいぶ暗くなりました。明日も歩きますので今日は一旦引き上げます
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12/6 17:00
だいぶ暗くなりました。明日も歩きますので今日は一旦引き上げます
2日目です。今日も天気が良く、張り切って行きたいと思います(^^)/
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12/7 9:17
2日目です。今日も天気が良く、張り切って行きたいと思います(^^)/
この先、野洲川の河川敷です。ヤマレコ足跡を見ると誰か渡渉しているようです、どこまで行けるのかな?
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12/7 9:25
この先、野洲川の河川敷です。ヤマレコ足跡を見ると誰か渡渉しているようです、どこまで行けるのかな?
ダメです、完全に渡渉になります(当たり前か(^.^))引き返して迂回します
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12/7 9:31
ダメです、完全に渡渉になります(当たり前か(^.^))引き返して迂回します
野洲川(旧松尾川)松尾の渡場がありました。無謀にも渡ろうとしました…
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12/7 9:50
野洲川(旧松尾川)松尾の渡場がありました。無謀にも渡ろうとしました…
右手の道は明治13年にできた道で、それまでは左側の道が東海道でした。今、歩いて来たのは左側の道で振り返って撮った写真です
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12/7 10:10
右手の道は明治13年にできた道で、それまでは左側の道が東海道でした。今、歩いて来たのは左側の道で振り返って撮った写真です
林丘寺宮御植栽の茶
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12/7 10:32
林丘寺宮御植栽の茶
市場一里塚跡
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12/7 10:51
市場一里塚跡
この辺り、茶畑が所々見られますね
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12/7 10:52
この辺り、茶畑が所々見られますね
松並木がこの辺りにもあったようです
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12/7 10:58
松並木がこの辺りにもあったようです
従是東淀領、境界石ですな。淀領がなんでまたこんな所にあるのか調べると、淀藩は武力等で領地を広げたのではなく、幕府から与えられて拡大しました。しかし畿内にはまとまった領地が無く、止む無くあちこちの領地を切り売りして与えられたために飛び地が多くなったためだそうです
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12/7 11:04
従是東淀領、境界石ですな。淀領がなんでまたこんな所にあるのか調べると、淀藩は武力等で領地を広げたのではなく、幕府から与えられて拡大しました。しかし畿内にはまとまった領地が無く、止む無くあちこちの領地を切り売りして与えられたために飛び地が多くなったためだそうです
今在家一里塚。現在のものは榎木で復元されたものですが、元々は桜でもっと東にあり明治初年に撤去されたようです
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12/7 12:20
今在家一里塚。現在のものは榎木で復元されたものですが、元々は桜でもっと東にあり明治初年に撤去されたようです
野洲川の辺りで昼ご飯をいただきました。良い景色です
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12/7 13:09
野洲川の辺りで昼ご飯をいただきました。良い景色です
ここから水口宿。東目附跡です
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12/7 13:56
ここから水口宿。東目附跡です
高札場跡。三本筋の宿場町でした、ここが最初の分岐点
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12/7 14:04
高札場跡。三本筋の宿場町でした、ここが最初の分岐点
三本筋のうちの北側の街道
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12/7 14:06
三本筋のうちの北側の街道
三本筋の真ん中の街道、三筋全部歩くのはしんどいのでここを歩いて行きます
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12/7 14:07
三本筋の真ん中の街道、三筋全部歩くのはしんどいのでここを歩いて行きます
これは南側の街道筋
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12/7 14:09
これは南側の街道筋
いまむら呉服店、看板が立派です
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12/7 14:23
いまむら呉服店、看板が立派です
宿場西側の三本筋合流点です。三筋の町と右下の看板に書かれています
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12/7 14:34
宿場西側の三本筋合流点です。三筋の町と右下の看板に書かれています
曳山の一つ「天王町」です。高さ5.4mの曳山、いいですねー
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12/7 14:37
曳山の一つ「天王町」です。高さ5.4mの曳山、いいですねー
水口城天王口跡です。水口城を建設するため、東海道を北に迂回させたそうです。真っすぐ進むと武家屋敷となり藩士以外の立入が制限されました。
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12/7 14:47
水口城天王口跡です。水口城を建設するため、東海道を北に迂回させたそうです。真っすぐ進むと武家屋敷となり藩士以外の立入が制限されました。
百間長屋跡。敵の攻撃から城や藩邸を防御するため、長屋の東海道側には出入口が無く、買い物は窓から首を出して手に入れていていたというホンマかいなという話しです。
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12/7 15:04
百間長屋跡。敵の攻撃から城や藩邸を防御するため、長屋の東海道側には出入口が無く、買い物は窓から首を出して手に入れていていたというホンマかいなという話しです。
水口一里塚跡。林口一里塚が正しい名称でしょうか
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12/7 15:12
水口一里塚跡。林口一里塚が正しい名称でしょうか
水口宿の西目附跡です、宿場町はここで終わりですが歌川広重浮世絵の「名物干瓢」はまだこの先のようです
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12/7 15:18
水口宿の西目附跡です、宿場町はここで終わりですが歌川広重浮世絵の「名物干瓢」はまだこの先のようです
道が真っ直ぐです(o_o)曲がりくねる街道としては珍しいのでは?
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12/7 15:27
道が真っ直ぐです(o_o)曲がりくねる街道としては珍しいのでは?
歌川広重浮世絵、水口「名物干瓢」はこの辺りで描いたのかなー?遠くに見える山が小さい…浮世絵の山はもっと大きいですけど…
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12/7 15:31
歌川広重浮世絵、水口「名物干瓢」はこの辺りで描いたのかなー?遠くに見える山が小さい…浮世絵の山はもっと大きいですけど…
歌川広重の浮世絵、水口「名物干瓢」
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歌川広重の浮世絵、水口「名物干瓢」
泉の一里塚。これは復元されたもので、本当はもっと南にある野洲川に近いところにありました
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12/7 16:10
泉の一里塚。これは復元されたもので、本当はもっと南にある野洲川に近いところにありました
横田の渡場跡。常夜燈が立派です
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12/7 16:13
横田の渡場跡。常夜燈が立派です
昔は横田川(現:野洲川)と呼ばれ、夏場は舟渡し、冬場は架橋で通行したようです。割と大きい川です、反対側まで迂回します。
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12/7 16:14
昔は横田川(現:野洲川)と呼ばれ、夏場は舟渡し、冬場は架橋で通行したようです。割と大きい川です、反対側まで迂回します。
暗くなってきました。横田渡場の反対側へは次回とし、今回の東海道歩きはこれで終わります、だいぶ京都に近づいてきました(^^)
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12/7 16:31
暗くなってきました。横田渡場の反対側へは次回とし、今回の東海道歩きはこれで終わります、だいぶ京都に近づいてきました(^^)
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