六甲全山縦走文太郎オマージュ


- GPS
- 16:13
- 距離
- 43.2km
- 登り
- 2,880m
- 下り
- 2,841m
コースタイム
- 山行
- 15:00
- 休憩
- 1:12
- 合計
- 16:12
天候 | 快晴 |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2024年11月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
阪急宝塚駅から大阪梅田への最終は平日土日ともに23時25分。 |
コース状況/ 危険箇所等 |
板宿道から禅昌寺に下りる道は最下部の崩落補修工事が終わって開通しているが、まだあまり人が通っていないようで上の方はだいぶ笹が繁殖してるし、県道22号線に下りる直前、補修現場横あたりは傾斜も急でザレザレの上にこの季節は乾燥した落ち葉も重なってスルッスルに滑る。 その区間はロープも張られているが、なぜか途中ロープが途切れたところが最も危ない傾斜になってるので要注意。 全縦走路中六甲山上町区間で今までドライブウェイを避けて三国池から三国岩の方に回り込んで丁字ヶ辻まで大回りしていた部分は、ここ数年続けられてたドライブウェイのその区間の工事が完了して広くきれいな歩道が付けられ、全縦大会でも安全に多くの人が通れるようになったようで、民家や別荘のある細い道を通らなくてよくなったことで今回の全縦大会でもドライブウェイを通るよう指示があったのか、それらしき表示案内が残されていた。 やはり以前の道に住んでいる人などからはクレームもあっただろうし、今後縦走路のその部分はドライブウェイを通るルートに変更されていくのではと想像される。 |
写真
塩屋駅からのスタートは対面の商店街に入っていく第1回全山縦走大会に使われた道ではなく、駅を出て右へ線路沿いに、地形図で見ても本当の六甲連山の尾根末端から登り出す。
文太郎が塩屋から六甲全縦走を目指すのに尾根末端をスルーして途中の鞍部から登り出したはずはないと思う。
ただこの道は住宅街の中で狭く分かりにくく、大会など大人数が通れるような場所ではないし、特に朝早くなど静かに通りたい。
おらが茶屋から高倉台に下りて栂尾山に登り返すところ。
この部分は県道65号線をつつじ橋で渡った所を左に折れて400段とか言われる階段を上るのが縦走大会第1回目からのルートのようだが、ここを右に曲がると文太郎道と呼ばれる細くザレた道がある。
それが本当かどうか由来の所以もわからないが、少なくとも文太郎の時代に400段の階段があったはずがないどころか山を削って造った県道も高倉台のニュータウンもまだ山だったはず。
真偽のほどは完全にはわからないまでも、ここはやはり右に曲がって文太郎道を通りたい。
馬の背を過ぎて東山から高取山に向かうのに現縦走路ではいったん北の横尾のニュータウンに下りるところをそのまま東に板宿道を下り、途中最下部の崩落補修工事が終わって開通した禅昌寺への道を下って県道22号線から禅昌寺橋を渡った側道と途中から県道の歩道を歩いて明光寺、通称萩の寺に入り、その右奥から裏の尾根を登って現在の妙法寺から高取山に上る縦走路に合流する、全縦大会初期に使われていた道を通る。
これは憶測だが、文太郎が歩いた時代には当然横尾のニュータウンなど無く、そこは間に口ノ川とその支流があるとはいえこれが主尾根の繋がりだという地形があったはずで、そう考えて地図を見ると確かに東山過ぎたあたりから北東に萩の寺を通るというのは自然と思われ、縦走大会初期頃に横尾あたりの開発があり、かつまだ横尾に下りる道など無かっただろうと考えると少しでも昔あったであろう尾根筋を通るために板宿道から禅昌寺に下って萩の寺から上るコースというのは苦肉の策ではなかったかと思われる。
この手前、少し上の以前崩落補修で通行止めになっていたあたりはそのすぐ横が昔からの道で、その道そのものはほとんど原形のまま残されているんだが、崩落地横からこの交差点に下りる区間は最も傾斜がきつい上にザレザレ。
そこにこの季節かれた落ち葉が積もってきててもうスルッスルに滑る。
この部分はほとんどロープが付けられてるが、なぜか一番危ない所にロープが無い。
今回は全く抵抗無くツルンとひっくり返ってしまってびっくりした。
交差点に下りたらすぐ県道を左に歩き出さず、県道越えて橋を渡ってすぐの細い道を左に折れるとしばらく車で危ない思いせず歩ける。
その後県道に下りてきたら反対側に歩道があるので信号を渡る。
この辺りは道も狭く見通しも悪く、車道を歩くのは危ない。
荒熊神社から上って尾根伝いに来たので下りようとして初めて気が付いたが、なんとハチ注意とのこと。
でも結局何も飛んでなかった。
左ふくらはぎが攣りそうな感じなので大きい東屋で漢方飲んだあと、掬星台から眺めると朝に比べて気温上がったせいで水蒸気昇ってるのかなんか透明感がなくなってぼんやりしてきてる。
山道からここに出たとき一瞬こんなところあったっけって思ってよく考えたらオテルド摩耶があった場所。
まあついにというべきか。
この後ここに何ができるのか。
ここは以前は確か道路を向こうに渡ってそのまままた山の中に入っていった気がするが、なぜか矢印が右に。
でも少し前に今年の全縦大会終わったばかりのはずで、それに合わせて付けられたと思われるから間違いやいたずらとも考えにくい。
高取山超えたらあとはもう基本現在の縦走路に依って歩こうって思ってたけど、まさかここまでの変更があるとは正直思ってなかったので一瞬迷ったが、時間も押してるし右に行って何が変わったのかも気になるので右に。
理由はすぐ分かった。
ここ数年工事してた県道16号線丁子ヶ辻手前の歩道が無かった部分。
道路の少し脇下に板張りの側道作る感じで綺麗に出来上がってた。
今までは歩道の無い幹線道路脇を多くの人がぞろぞろ歩く危険を避けて三国池のほうに遠回りするコースを設定してたのが、やはり細い生活道路で住民からのクレームもあっただろうし、今回歩道の開通を受けて縦走路のこの部分を変更したのでは。
だとすると今後の全山縦走路のこの部分はこの歩道を通るという設定に統一されていくのではと思われ。
まだ大きい月も昇ってきてて夜景がいつも以上に豪華。
装備
個人装備 |
長袖シャツ
ソフトシェル
ズボン
靴下
グローブ
防寒着
靴
ザック
昼ご飯
行動食
非常食
飲料
地図(地形図)
コンパス
ヘッドランプ
予備電池
GPS
ファーストエイドキット
保険証
携帯
時計
タオル
ストック
カメラ
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感想
昔、おそらく中学生のとき読んだ新田次郎の孤高の人に触発され、まだ山歩きもしたことなかったのに全山分の地理院地図買ってテープで貼り合わせ、ガイドブック買って研究を重ね、どこで買ったかなんちゃってビブラムのようなソールで編み上げのワークブーツにペラペラのナップサック。
暗さが怖くてでかい懐中電灯とへッ電の2灯に弁当や水はどうしたんだったか。
芦屋の知り合いの家に泊めてもらってすき焼きをごちそうになり、気持ちよく寝過ぎてほんとは塩屋からスタート予定だったのを急遽手前の須磨浦公園からに。
当時すでに全山縦走大会は始まってたが、第1回は文太郎が亡くなってから39年後。
現在の縦走大会のコースは何百何千という人数がより安全に、周りへの迷惑少なく通るために設定され、そのため工事など何かあるたびに変更もなされてきた。
しかし自分は初めての時点で大会参加ではなく自分で調べたコースを歩いたので、そのころからほんとは文太郎はどういうコースで歩いたのか気になってた。
六甲山、特に摩耶山から六甲山頂にかけての山上町周辺は変遷も激しく、間に二次大戦の敗戦もあり、山頂周辺は長くアメリカのレーダー基地があって一般人は入ることもできなかったし、その建設などに伴う山を削っての道路の新設など、この辺りに関してはもはや文太郎がどこを歩いたかなど考える余地も無い。
また、高取山から菊水山までは完全に市街地で決められた道を歩くしかなく、山頂以東の東六甲縦走路はほぼ尾根通しで最後幾つか小さいピークをどうしたのかという疑問は残るが現在そこをつないで歩けるような道は無さそうで、去年だったか全てのピークを歩こうという趣旨の縦走大会ではこの部分の小ピークはどれもピストンになっていた。
という状況下で、今では文太郎がどこを歩いたかなどと勝手な想像を巡らせられるのは高取山より西だけかと思われる。
この辺りは山も低く街に近く、山と山の間はどこも削られてニュータウンになって尾根筋も分断されてしまってるが、昔から毎日登山などで多くの人が歩き、多くの尾根に道がつけられ、そのどことどこを繋げばより文太郎の歩いた道に近いのか。
そんなことを考えて楽しみだして何年にもなるが、その中で現縦走路のここはきっとこちらを通ったほうがより当時に近そうだなと固まってきた所がスタートから高取山までに3か所。
今回はそのカスタム個所を通ってそのあとは現縦走路に依って歩いてみることに。
仔細は写真にも書いたが、一つ目のカスタムはスタート。
現在の大会スタートは須磨浦公園だが第1回だけは塩屋から。
ただしそれは旧グッゲンハイム邸事務局そばのお地蔵様のある車は通れない細い道から地形図的に六甲連山の尾根末端から忠実に上る道ではなく、改札出た向かいの細い商店街のようなところを入って行って少年の町と呼ばれるところを通り、尾根末端の北側に回り込んで途中の鞍部に上るようになっている。
しかし塩屋の会社の寮に住んでいたという文太郎が六甲全山縦走の登り始めにわざわざ尾根末端以外からというのは考えにくく、やはり現在の須磨浦公園からも第1回だけの塩屋少年の町からにしても大人数をできるだけ安全で迷惑にならないよう主催者側が考慮した結果だろう。
よってここはやはり塩屋駅から線路に沿って歩き始めて尾根末端に近い所から登り始めたい。
次にカスタムの二つ目は栂尾山に登る400段とか言われる階段を上る部分。
ここは以前から南側から栂尾山に登る文太郎道と呼ばれる登路があることが知られており、それが本当かどうかは自分にはわからないが、少なくとも文太郎の時代にはまだ山を削って開いた高倉のニュータウンは無く、400段の階段も無かったはずで、逆説的に文太郎道の方が可能性があることになるのでここはやはり可能性のある方を通りたい。
カスタムの最後三つ目は、馬の背を過ぎて東山から北の横尾のニュータウンに下り、街中を抜けて妙法寺から、西から高取山に上る部分。
ここはいつからこのコースになったのかは知らないが、自分が歩いた頃は東山から北に下りずに板宿道を東に進み、途中から禅昌寺への尾根を通って県道22号線に下り、道路を北に明光寺、通称萩の寺まで歩いてお寺の裏の尾根から現在の縦走路に合流していた。
ここも地形図を見ると横尾のニュータウンを開くために山を削る前は高取山に向かってより直線的に、おそらく東山から萩の寺に下りてお寺裏の尾根を上るように山が続いていたのを50年前の人たちは覚えていたからこそ当初の縦走路は出来るだけその面影を辿るよう、禅昌寺から萩の寺を通るよう設定されたのではなかったか。
しかしこの部分の県道22号線は狭く曲がりくねって見通しも悪く、大人数が通るには危険だったのが大きな理由でいつからか現在のできるだけ車の少ない道を通って県道など交通量の多い道路を通る部分を極力抑えたルートに設定変更されたのではと考える。
現在東山から直線的に萩の寺に下りる道は無いようで、道がある所を通るとすればやはり昔自分も歩いた旧縦走路を通りたい。
今回はこの三つを繋げ、それ以降は現在の縦走路通りに歩くという計画を叶えに例によって前夜3時間ほどウトウトしただけで行ってしまって無茶苦茶疲れたが、どのカスタム部分もすでに歩いてみておいたのが奏功し、何とかギリギリで宝塚に下りることが出来て今までの全山縦走とは違う安心感というか解放感というかでまだ気が抜けてしまってる。
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