記録ID: 8027725
全員に公開
ハイキング
京都・北摂
京都一周トレイル
2025年04月19日(土) [日帰り]


体力度
3
日帰りが可能
- GPS
- 04:51
- 距離
- 22.4km
- 登り
- 692m
- 下り
- 697m
コースタイム
日帰り
- 山行
- 4:20
- 休憩
- 0:25
- 合計
- 4:45
距離 22.4km
登り 692m
下り 697m
12:09
ゴール地点
天候 | 晴れ 気温25° |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2025年04月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
京阪淀屋橋から特急 丹波橋下車 約40分 帰り 市バスで 京都駅 京都駅から大阪 |
コース状況/ 危険箇所等 |
京都一周トレイルの看板有り 所々に解りにくい箇所は有り コースの半分は舗装道 |
その他周辺情報 | トイレは少ない 伏見桃山城は城内は入れません 外観だけは見れます 伏見稲荷は インバウンド効果で 参道は朝から大渋滞 |
写真
桓武天皇は806年3月、70歳で崩御。「葛野郡宇太野(うだの)を山陵の地と定められたが、そこが賀茂神社に近く、不敬であったために、洛中にしきりに災異が発生したので、改めて紀伊郡柏原の地に奉葬された」(資料2)と言います。「柏原とは一に栗崎ともいい、深草より伏見につづく茫漠たる原野をいい、天皇は在世中、この地にしばしば遊猟された」(資料2)とか。
『延喜式』巻21(諸陵寮)には、広大な面積の表記をして柏原陵のことが記録されています。しかし、朝威の衰えとともに陵墓は荒廃し中世以降にその所在が不明になったのです。「元禄以来、種々調査検討が行なわれ、明治13年(1880)このところを以て柏原陵と決定されるに至った。」(資料2)と言います。
『延喜式』巻21(諸陵寮)には、広大な面積の表記をして柏原陵のことが記録されています。しかし、朝威の衰えとともに陵墓は荒廃し中世以降にその所在が不明になったのです。「元禄以来、種々調査検討が行なわれ、明治13年(1880)このところを以て柏原陵と決定されるに至った。」(資料2)と言います。
真言宗泉涌寺派の総本山。皇室との関連が深く『御寺(みてら)』とも呼ばれる。
名は、鎌倉初期に月輪大師俊芿(しゅんじょう)が宋の法式を取り入れて、大伽藍を営むことを志した際、 敷地の一角から清水が湧き出たことから改称された。
名は、鎌倉初期に月輪大師俊芿(しゅんじょう)が宋の法式を取り入れて、大伽藍を営むことを志した際、 敷地の一角から清水が湧き出たことから改称された。
今熊野観音寺手前の橋
今熊野観音寺は
西国三十三所第十五番札所
ぼけ封じ・近畿十楽観音霊場第一番札所
京都泉山七福神巡り(恵比須神)
洛陽三十三所観音霊場第十九番札所
神仏霊場会122番霊場(京都42番霊場)
として名高く、また古くからの霊験記にも記されている通り「頭の観音さん」として広く人々の信仰をあつめ毎日多くの善男善女が参拝や巡礼におとずれ、大変にぎわっております
今熊野観音寺は
西国三十三所第十五番札所
ぼけ封じ・近畿十楽観音霊場第一番札所
京都泉山七福神巡り(恵比須神)
洛陽三十三所観音霊場第十九番札所
神仏霊場会122番霊場(京都42番霊場)
として名高く、また古くからの霊験記にも記されている通り「頭の観音さん」として広く人々の信仰をあつめ毎日多くの善男善女が参拝や巡礼におとずれ、大変にぎわっております
京の都は「将軍塚(しょうぐんづか)」から始まりました
この地は、京都の中心四条通の真上に位置し、桓武天皇が都を定められる折り、和気清麻呂に伴われ登られて、この京都を都とすることをお決めになり、将軍の像に甲冑を着せ埋めて、都の安泰を祈ったと伝えられています。約20m四方の将軍塚が現存しています。
将軍塚の由緒
桓武天皇は都を奈良から京都の南方、長岡に移されましたが、いろいろと事故が続きました。この時、和気清麻呂は天皇をこの山上にお誘いし、京都盆地を見下ろしながら、都の場所にふさわしい旨進言しました。天皇はその勧めに従って延暦十三年(794年)、平安建都に着手されました。
天皇は、都の鎮護のために、高さ2.5メートル程の将軍の像を土で作り、鎧甲を着せ鉄の弓矢を持たせ、太刀を帯させ、塚に埋めるよう命じられました。これが、この地を「将軍塚」と呼ぶ由来です。
この「将軍塚」は、国家の大事があると鳴動したという伝説が、源平盛衰記や太平記に残されております。また、延元年間(1338年頃)には新田義貞がここに陣を敷いて足利尊氏の軍を敗り、また近くは太平洋戦争にここが高射砲の陣地にもなりました。将軍塚は、「強者どもが夢の跡」でもあります。
近代では、東郷元帥、黒木大将、大隈重信、菊地大雪等のお手植えの松と石柱があり、 往時の偉人達が訪れ、ここから京の都を一望して日本の将来に思いを馳せたことが偲ばれる由緒ある場所です。
この地は、京都の中心四条通の真上に位置し、桓武天皇が都を定められる折り、和気清麻呂に伴われ登られて、この京都を都とすることをお決めになり、将軍の像に甲冑を着せ埋めて、都の安泰を祈ったと伝えられています。約20m四方の将軍塚が現存しています。
将軍塚の由緒
桓武天皇は都を奈良から京都の南方、長岡に移されましたが、いろいろと事故が続きました。この時、和気清麻呂は天皇をこの山上にお誘いし、京都盆地を見下ろしながら、都の場所にふさわしい旨進言しました。天皇はその勧めに従って延暦十三年(794年)、平安建都に着手されました。
天皇は、都の鎮護のために、高さ2.5メートル程の将軍の像を土で作り、鎧甲を着せ鉄の弓矢を持たせ、太刀を帯させ、塚に埋めるよう命じられました。これが、この地を「将軍塚」と呼ぶ由来です。
この「将軍塚」は、国家の大事があると鳴動したという伝説が、源平盛衰記や太平記に残されております。また、延元年間(1338年頃)には新田義貞がここに陣を敷いて足利尊氏の軍を敗り、また近くは太平洋戦争にここが高射砲の陣地にもなりました。将軍塚は、「強者どもが夢の跡」でもあります。
近代では、東郷元帥、黒木大将、大隈重信、菊地大雪等のお手植えの松と石柱があり、 往時の偉人達が訪れ、ここから京の都を一望して日本の将来に思いを馳せたことが偲ばれる由緒ある場所です。
装備
個人装備 |
長袖シャツ
Tシャツ
ソフトシェル
ズボン
靴下
日よけ帽子
靴
ザック
行動食
飲料 500㍉2本
日焼け止め
携帯
時計
サングラス
タオル
|
---|
感想
京都一周トレイル
半時計周りで調整の
パート1
伏見桃山から蹴上まで
伏見桃山城、伏見稲荷、京女鳥部の森、
清水山、神社仏閣
見所は沢山あって
楽しかった
登山らしいのは
京女鳥部の森と清水山位で
あとは
舗装道路
特に伏見稲荷の参道を抜ける
稲荷山迄は
外国人観光客で大渋滞
改めて
人気の高さが分かりました
京都一周トレイルの
標識がポイントにあるので
大きな迷いは無いと思います
トイレ、自販機は少なく
舗装道路を歩く事が多いも
コンビニは無かったです
最高気温が26℃の予報でした
案の定
汗だく
ペットボトルは500㍉✖️2本
短パンでも行けたかと
次回は蹴上スタート
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