記録ID: 8093507
全員に公開
ハイキング
奥多摩・高尾
高川山と近ヶ坂往還【絶景と天領の歴史道】
2023年06月19日(月) [日帰り]

体力度
3
日帰りが可能
- GPS
- 05:57
- 距離
- 12.8km
- 登り
- 907m
- 下り
- 819m
コースタイム
日帰り
- 山行
- 5:12
- 休憩
- 0:41
- 合計
- 5:53
距離 12.8km
登り 907m
下り 819m
| 過去天気図(気象庁) | 2023年06月の天気図 |
|---|---|
| アクセス |
利用交通機関:
電車
|
| コース状況/ 危険箇所等 |
高川山までは人気のハイキングルートで道標がしっかりついています。高川山から近ヶ坂峠にかけての尾根道や近ヶ坂往還はあまり使われていないルートのため、登山アプリやGPSの活用をおすすめします。特に近ヶ坂往還は荒廃が進んでおり、春から秋にかけては道がササに覆われてしまいルートが分かりにくくなります。葉の落ちた冬の季節がおすすめです。 【田野倉駅~高川山】 田野倉駅から住宅街を歩きます。桂川を渡って左側に少し道を逸れたところに十王堂というお堂があります。中には閻魔さまや奪衣婆が納められていて、近くには安産の神様や乳神さまなど、神頼みスポットが集まるエリア。中央道のそばまで来ると、丸いバルコニーが印象的な、明治10年に建てられた小学校を保存した「尾県郷土資料館」が。登山のスタート前ではありますが、明治レトロな建物をぜひ堪能して。 中央道をくぐってゆるやかな坂道をしばらく登ると登山口です。時々急な坂道がありますが、危険な箇所はありません。道のすぐ横に背丈よりも高い大きな岩が見えたらそれは弁慶岩(べんけいいし)。弁慶が甲州街道を追ってくる源頼朝に向かって、岩殿山から大きな岩をふたつ投げ落としたところ、ひとつは小形山の麓に、もう一つは高川山の中腹に落ちたそう。小形山の麓に落ちた石は、先ほどの十王堂のそばにありますよ。 弁慶岩からもう少し登ると、馬頭観音がいくつか祀られた岩場があります。かつて仕事で山に入った人々が、山仕事の安全を願って祀ったそう。登山の無事をお願いしましょう。 大月駅のそばから伸びる登山道に合流した後は、少し岩がちな急坂に。ロープのある岩場もありますが、登りでは慎重に足場を選べば危険を感じることはなさそう。かつての狼煙台と呼ばれる平地まで登りきった後、ゆるやかなアップダウンを過ぎれば高川山の山頂です。 山頂は富士山方向が見渡せる広いビューポイントで、かなりの広さ。それでもお天気の良い週末は混雑するので、ゆずりあいながら景色を楽しみましょう。 【高川山~近ヶ坂峠】 山頂からは初狩駅に向かう下山ルートへ。急な坂を降りてすぐ、初狩駅方面右折を示す道標がある丁字路に突き当たります。左方向への案内はありませんが、近ヶ坂峠への道は左へ。踏み跡ははっきりとしていますが、ここからは道標は全くなく、要所を除いてテープも設置されていないので、アプリやGPSを確認しながら尾根伝いに進みましょう。 羽根子山とカンバ沢の頭の間には短いですが痩せた尾根があります。その他に滑落の危険を感じるところはありません。羽根子山の山頂や、カンバ沢の頭から少し進んだ先の尾根道からは、見事な富士山の景色を楽しめます。羽根子山を過ぎれば急な登りはなく、ゆるやかな尾根の縦走路が続きます。 大岩の頭への分岐から先は、さらに登山者が少なくなるため踏み跡も薄く、道が分かりにくくなりますが、尾根地形を見ながら歩けば危ないところはありません。近ヶ坂峠は森の中にあり眺望はありませんが、地域の方が設置した案内看板と道標があります。 【近ヶ坂峠~谷村町駅】 近ヶ坂の名前の由来は、カヤ(茅)が生える峠道を表現した「茅ヶ坂」が変化したもの、と言われています。残念ながら今はカヤではなくササが生い茂り、葉が伸びてからは地面が全く見えなくなってしまうので、通行は冬の間がいいでしょう。近ヶ坂往還は整備が十分ではなく、道が崩れて途切れたように見えるところもあるので、慎重に歩きましょう。それでもところどころに、路肩の土留めのための石垣や、登山口にある馬頭観音にかつての街道の雰囲気を感じられます。登山口の馬頭観音までくれば、あとは舗装された林道になります。 キャンプ場を過ぎてしばらく歩けば、馬頭観音群のある登山道入口。このあたりは中津森という地区で、戦国時代にこの地域を治めていた小山田氏の城があった場所です。近ヶ坂往還は都留インターチェンジの方向に続いていたそうですが、ここからは江戸時代に将軍に献上する宇治茶の輸送路「お茶壺道中」に使われたと推察されるルートをとりましょう。広い交差点を直進し、道なりに低い峠をふたつ越えると、中央道にぶつかります。高速道路を潜った先は川棚地区。ここは豊臣政権時代に城を が置かれた場所。左に見える小高い山にも防御陣営が造られていたそう。勝山城と呼ばれるこの山城は江戸時代、川棚の城が桂川の対岸に移転してからも使われ、山の北側には蔵が設けられ、将軍に献上する宇治茶の一部が熟成を兼ねて夏の間に保管されたそう。お茶を運ぶ行列は「お茶壺道中」と呼ばれ、それが通る際は沿道の家々は戸をぴしゃっと閉じて子どもは閉じこもり、道で行きあった人々はひれ伏して通りすぎるのを待ったそう。手あそび歌「ずいずいずっころばし」は、このお茶壺道中の様子を歌っているとされています。 お城の建物はお茶壺蔵を含めて現存していませんが、本丸や三の丸があった場所は平坦地となって残っているほか、かつての内堀や竪堀、石垣を見ることもできます。地域の人には「お城山」として親しまれていて、お散歩や花見のスポットして今では生活の一部になっている里の低山です。 お城山から桂川にかかる吊り橋を渡れば、ゴールの谷村町駅はすぐ。 |
| その他周辺情報 | 【トイレ】 田野倉駅、尾形郷土資料館、勝山城跡下、谷村町駅 【コンビニ】 田野倉駅そばにローソンあり |
写真
三界萬霊等は、仏教でこの世とあの世の境界を示す塔で、結界のようなものでしょうか。災害などで亡くなった方を偲ぶために建てられることもあるそうです。高川山の周りでは初狩駅側の登山口にも見られます。
明治11年に小学校として建てられた尾県郷土資料館。丸いバルコニーがおしゃれです。その頃このあたりは里山の静かな村だったのでしょうが、新しい時代の到来を強く意識づけようとする当時の意思が感じられます。
弁慶岩。べんけいいし、と呼ばれています。
岩殿山から弁慶が頼朝に向かって投げ落としたもの、とか。街道からずいぶん離れた場所にあるのは、弁慶の心に迷いがあったから、ということらしいです。岩の左側には窪みがあり、弁慶がつかんだ指あととされています。
岩殿山から弁慶が頼朝に向かって投げ落としたもの、とか。街道からずいぶん離れた場所にあるのは、弁慶の心に迷いがあったから、ということらしいです。岩の左側には窪みがあり、弁慶がつかんだ指あととされています。
カンバ沢の頭。神馬沢、という表記も見られます。
山本周五郎の小説でときどき現れる「かんば沢」という地名は、この足元から流れる沢筋を指しているよう。その先には、周五郎の生家があった集落があります。幼年時代の思い出を小説に落とし込んでいたのでしょうか。彼の生家は明治の土石流災害で流されており、その後東京に引っ越しています。
山本周五郎の小説でときどき現れる「かんば沢」という地名は、この足元から流れる沢筋を指しているよう。その先には、周五郎の生家があった集落があります。幼年時代の思い出を小説に落とし込んでいたのでしょうか。彼の生家は明治の土石流災害で流されており、その後東京に引っ越しています。
小さな峠を2つ越えて、勝山城址へ。
川棚登城路という裏道から城跡へ登ると、途中にお茶壺蔵があったと見られている平坦地も見学できます。
山の北側にあたるので、冷暗所での保存が基本の茶葉にちょうどよかったかもしれませんね。
川棚登城路という裏道から城跡へ登ると、途中にお茶壺蔵があったと見られている平坦地も見学できます。
山の北側にあたるので、冷暗所での保存が基本の茶葉にちょうどよかったかもしれませんね。
撮影機器:
感想
【近ヶ坂往還】
初狩と都留を結ぶ山道。甲府から都留に向かうには大月まわりや御坂道経由が考えられますが、それらよりも近道となるルートで、特に都留地域を支配していた小山田氏が武田氏の配下に入って以降は活発な人は物資の往来があったとみられている脇往還です。
いくつもの大河川を渡らなければならず、大雨になると何日も通行止めになってしまうことがある東海道。そのため急ぎの荷物や重要な人物などは、中山道、甲州街道を通り江戸を目指したことも少なくなかったそう。有名な事件では、幕末に和宮が将軍家茂との結婚のため江戸に向かう際に甲州街道を使ったことが知られています。
将軍に献上する宇治茶を運んだお茶壺道中がこの近ヶ坂往還を通ったことを明確に示す資料は発見されていません。ただ、勝山城でお茶を保存していたこと、使用した宿場を示す行程表の間隔などから、お茶壺道中がこの近ヶ坂往還を利用していたと考えることが合理的だと推察されています。
お気に入りした人
人
拍手で応援
拍手した人
拍手
訪問者数:57人
コメント
この記録に関連する登山ルート
この場所を通る登山ルートは、まだ登録されていません。
ルートを登録する
富士急トレイル



















いいねした人