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ハイキング
関東
東海道53次+4次を歩く その1 (1日目:日本橋〜川崎宿)
2025年10月09日(木) [日帰り]

体力度
3
日帰りが可能
- GPS
- 10:15
- 距離
- 33.1km
- 登り
- 13m
- 下り
- 4m
コースタイム
日帰り
- 山行
- 9:28
- 休憩
- 0:47
- 合計
- 10:15
距離 33.1km
登り 13m
下り 4m
7:22
18分
スタート地点
17:37
ゴール地点
| 天候 | 曇り/晴れ |
|---|---|
| 過去天気図(気象庁) | 2025年10月の天気図 |
| アクセス |
利用交通機関:
電車
|
写真
土蔵相模跡:文久2年(1862)の長州藩士による英国公使館焼き討ち事件の際は、ここ土蔵相模から出発。安政7年(1860)には桜田門外の変で襲撃組主体をなした水戸浪士17名がここで訣別の宴を催した。
鐘楼にある大梵鐘は「洋行帰りの鐘」と呼ばれ、梵鐘は慶応3年(1867)パリ万国博覧会出品後に行方不明となりましたが、スイス・ジュネーヴで発見され、60余年を経て昭和5年(1930)に里帰りを果たした(しながわ観光協会)
鈴ヶ森処刑場遺跡:丸橋忠弥、天一坊、白井権八、八百屋お七たちが処刑された刑場。火炙りの刑に使用された火炙台、磔の刑に使用された磔台、首洗の井が残され、南無妙法蓮華経題目碑、無縁供養塔、鈴ヶ森刑場受刑者之墓塔などの石塔石碑が建っている
今でも花が手向けられている
今でも花が手向けられている
助郷会所跡 「宿駅に常備する伝馬人足の不足を補う助郷制によって近在農村より徴用された人馬は、助郷会所に集められた。助郷制は、川崎宿 周辺の農村の労働負担となり、窮乏を招く要因となった」(解説版)
佐藤本陣跡 (16:40 東京駅から29.6km)佐藤惣之助のレリーフが描かれている。佐藤惣之助は、この佐藤家の末裔にあたり、昭和5年頃から歌謡曲の作詩を手がけ始め、赤城の子守唄、東京娘、人生の並木道、湖畔の宿などがある。
芭蕉句碑 元禄7年(1694)5月、江戸深川の庵をたち、郷里、伊賀(現在の三重県)への帰途、川崎宿に立ち寄り、門弟たちとの惜別の思いをこの句碑ににある「 麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」の句にたくしました。(解説版)
鶴見川橋 大正末期までは「鶴見橋」と呼ばれており、初代の橋は徳川家康が東海道を整備した1601年(慶長6年)頃に架けられたと考えられている。現在の橋は1990年度に工事に着手、1997年度に完成。橋長119.6
鶴見橋関門旧跡 安政六年(1859)横浜開港とともに神奈川奉行所は外国人警護の為に関門を設けた。鶴見橋関門は、万延元年(1860)4月に設けられ、文久2年(1862)8月、生麦事件の発生により、川崎宿から保土ヶ谷宿の間に、20ヶ所の見張番所が設けられました(解説版)
感想
鎌倉街道上道を歩いてから街道歩きの楽しさ囚われてしまい、次に中山道・日光道中・奥州道中・日光例幣使街道・日光西街道(壬生道)・熊野古道(紀伊路・中辺路)・甲州道中と歩いてきました。今回は五街道を代表する東海道に挑戦です。
ひと月に3泊4日を1回として、大阪に着くのは来年の真夏になりそうですが、気力・体力の維持に努めたいと思う今日この頃であります。
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